いのちは重くない

 

 

真実の言葉はよく分からないが、全裸の言葉はひたすら恥ずかしい。精神の急所をさらけ出している。なんなら物理的全裸より恥ずかしいのではなかろうか。これは恥という倫理ではなく無防備であるという事実。

 

夢では誰かと生々しい接吻をしていたのが前半。舌に意志があるのは良いが見たことがない人が登場するのは何なのだろうな。後半は野球のようなゲームをしていて打順を飛ばされた僕がかなり憤っていた。その相手も何か言い訳をしていたのだがあんまり聞いていない。

 

さておき。

 

悲しそうな文章を読むと響いてしまうなぁ。人の感情に良しあしは無いから個人的には悲しみも楽しみに含まれるのだが、他人の感情に関しては、否定も肯定もせず、ただ見ているということが最大限のできることなのかなとか考えながら、命の序列について思索していた。

 

命、人のという枕詞が付くと特にだが、とても難しい。これは概念の広さと深さが人それぞれなのに、言葉が1つだから自分の概念が誰かにも同じように捉えられていると前提に置いてしまうことにあるのでは。悲しみとか憤りがある人は、少なくとも単なる物理的な活動の存続とはしていないよな。

 

素朴な僕は正味、見ず知らずの思想的発言をよくそのまま鵜呑みにできるものだと直観したのだが、たしかに言葉にはそういうところはある。僕も会ったことがない人の悲しそうな文章に響いているし。ただ、僕はなんでもかんでも言葉であるだけで響いている訳ではなさげ。

 

 

本題の前にちょっと逸れる。

 

観たいなと想っている演劇の会場を具体的に検索してみたのだが、思いの外遠い。遠くても時間と費用がかかっても、経験できる機会が限られているときにコストを気にするのは悪手だからどうでも良いが、帰って来られなさそうなのはちと困る。宿泊施設があるような感じもするのだがそのまま止まる選択肢は今のところない。泊まるなら近くにありそうな城崎温泉街にしたいところ。理由は、秘密。

 

そうして、もう1つの会場である神奈川県の方が、移動時間とか日帰りできそうとか、あれとかを考えると、良いのかもしれないが、新横浜辺り(特に青葉台)は思い出の地だからなぁ。6年前くらいに月2回くらい行っていたのでは。夜勤で4,5勤とか、日勤に移っても常に残業2時間セットで働いていた時代だから、経済的にはまぁまぁ余裕があった時代。仕事環境は今の方が遥かに良いが。

 

で、城崎温泉近くの海上の立地をグーグルマップで見ていたら、この辺りも思い出の地ではないかと想起される。経年で思い出が色褪せるなんて人生の攻略情報、僕には嘘でしかなかった。

 

どちらも同一人物で、なんなら昨日の日記の冒頭の浮気相手とのメールを見つけてしまったのも同じ相手。

 

あぁそうそう僕の名誉というか自分ルールに誓って、僕は誰かの浮気相手になったことはあっても浮気相手が居たことはない。人が浮気する分にはその人ルールだが、僕のルールにはそういう概念はないというだけ。誰かを1番とすることは容易いが、誰かの1番になるのはしっくりこないというのが、浮気相手として最適の相手とされたということなのだろうか。特に肉の接触に重きを置かない(置けない)とか色々他にも要素はあるが、少なくとも倫理的観点からそうしている訳ではない。倫理的観点だったら他人のそれも否定することになる。

 

付き合っていた友人が浮気性だったのだが、そういう友人と付き合っているってことはお前もそうなのかみたいに類推的に疑われたこともあったな。

 

この話てきとーに挿入しただけだが、命の話とも繋がってそうな。

 

しばし、自分語りが続く。

 

もう1つの思い出の地について。これは時系列でいうと9年前くらい。浮気が発覚した後、やけくそというかこの部屋に居たくなくなり鳥取の友人に会いに行った。で、恋人さんも何故か付いてくる。で友人と会った後帰りの電車で、最後の旅なのだろうなとか思っていたのかどうかは知らないが、電車に乗っていたら花火が上がっているのが見えたため、唐突に下車して、2人で最後の花火を眺めた。で、この歩いた道筋(駅から海岸まで若干遠かったなとか)を鑑みるに、もしかしたらピンポイントに1回だけ降りた駅かもしれないなとなっている。そうだったらほんとこわ。実際はもうっちょっと鳥取の駅な気もする。

 

なんの縁(ゆかり)だよなって。逆に是非とも行ってみたい気分になってくる次第。

人生に縁起ってほんとにあるんだなぁ。上書きはできないが、行かないといけない場所なのかもな。日記を続けてきた中では初泊まりかぁ、日記どうしよう。1日で内容を忘れるなんてことはないが。

 

ちなみにこの人とは確かに最後の花火ではあったが、その3年後再会することになる。このまま幸せに、となれば良かったのだが残念ながら、亀と接吻の画像の辺りが最後のデートになった。辛かったがおそらく相手もそうだろうしもう会うことはないだろうな。呪詛はちっともない。ハッピーになっていていれば良いな。

 

で、この3年の間に本の師匠がいて、この後に色々してくれる男性がおり直近の元恋人さんと出逢ったのも同時系列。そして誰も居なくなった(居なくした)が、存在感満載として僕の中には残っている。

 

やれやれ。

 

これを踏まえて(?)、命の話をしよう。

 

某有名人が失言で炎上したとのことで、コピペ的には、「猫の命の方がホームレスのそれより重い」みたいな主張で良いのかな。原典は一切見ていない。というのも、僕はこの人の動画は昔いくつか無料の範囲で見たことがあるのだが、あんまり見ない方が良いなとなったため。見解としては面白かったような気がするが、違和感レーダーが拒否ったのかいつのまにか見なくなった。有料登録する気にもならなかったし。

 

命の重さって、理念(理想)では平等(憲法)だが、現実的にはそうもいかない。局地的には量りにかける必要がある事態も起こる。突き詰めていけばいくほどよく分からない。ただ、そこまで厳密なやり取りではないようだから省略。

 

僕が気になるのは、吹き上がっている人が同じく憲法上の権利である思想・良心の自由についてどう捉えているのか。どんな思想であれコントールはできないというのが、歴史から学んだ個人を尊重するための手法だったはずなのだが、倫理的によろしくないという思想を持ったことで排斥するのであれば、思想から良い人だけを受け入れるという意味では同じ水準の考え方かと思われる。

 

あくまで主観だが、僕は失言が炎上する文化というのも良く分からない。そもそも見ていないというのもあるが、発言から逆算(類推)される思想がどれだけ現実化されるかって考えたら、それこそ自分を省みたとき、法律違反の現実化までは行わないということにならないのか。

 

信用ならない人物の発言は真実だとするって素朴に考えると矛盾なのだが、信用ならない証拠を補強するために当人にとって悪い発言だけ採り入れるんかな、というのは「AIは人を憎まない」あったような。

 

たしかに属性で括って否定するって雑いのだが、であるのであれば、その雑さに流される必要もない気がする。浮気するような女は1回ぶん殴れば良いって言われたとき、僕にとっては大事だが、他人にとってこの大事さを認めて貰う必要はないとなったのだが、なんでその人にも自分の思想を浸透させたいって思うのだろう。無理なのに。

 

なかはどうあれ外はルールを守りましょうというのが現代社会。

まぁ発言も外だというする解釈は分かるし、発言で反論するのは自由だが人格否定するとなると同じ土俵に上がってしまう。思想と現実化が直結するのであればアーティスト界隈は軒並み思想犯になりそうだし。

 

これはまた別の話。この人の肩書で行動経済学を未収得とかありえなさそうだが、コピペ的な発言を見ると、代表的ヒューリスティックの判断手法まんまだなとなる。これは属性の代表値を前提としてその属性を考える。要は、実際に接した経験則からその属性全体を捉えるということ。たしか猫飼っていたし、綺麗でコストをかけている飼い猫を代表とした猫という属性と、たまたま見かけた臭かったホームレスとしての属性を天秤にかけたら、そりゃあ前者の方が重いに違いない。

 

自分の倫理観にそぐわない存在も人として認めるというのが今のところの社会だから、悲しくなるなら見ないようにするしかないというか、見ないでいいのにって思う。別にこれを見ないと生きられないわけでもなし、あえて痛く生きなくても良かろうに。

 

そうして、命の話をしよう。

 

人の命は地球より重いと書いた裁判があったのだが、命って重さで考えるものではなと思う。重さを考えなきゃならないのは、誰かと誰かの命を比べないといけないときだが、これは何か客観的な指標で判断できるものではない。それに、このものさしで考えれば問答無用で、自分の命が一番重いに違いない。だって、自分の命がないと誰かの命も大事にできないのだから。

 

理念的な意味での、人は生きているだけで価値があるみたいな話も、なんで価値がないといけないのだとなる。ならない? 

価値と言ってしまうと有用性とか金銭換算とか何か対価を得られる立場みたいなニュアンスがあるように思うのだが。

 

端的に生きているだけ良いです、の方が分かり易いような。

 

で、そもそも命とはなんぞや。

僕としては端的に言語化できる気がしないのだが、理念的な人類みな平等の価値ってお釈迦様でも無理だと思う。

 

結局は近いところから命の大事さは時空の遠近でグラデーションがあるし、虫の命は気にしないのに人の命が重いのはなんでやとか、餓死している世界の何処かの子供の価値は何処に行ったんだとかになるから、倫理が言う人の価値は、あくまでその倫理が適用できる社会の構成員の命なんだろうなって思っている。

 

もっと考えていったとき、単純な生命活動を命とするのであれば、植物人間はどうなのだろう。僕の父親はそうなりそうなところはあった。そうなることなく亡くなってしまったが、僕の中では存在は残っている。

 

要は、僕の中での命は、存在であって実際に生命活動が続いているか、接しているかはあんまり関係ない。自分と合わない人だって存在しているし、その存在があることは認める。

 

認めるというのは、特に肯定的な意味ではなく、虫が鳴いているのを排除はできないよなというというくらいで、積極的に排除しない、放置みたいな文脈。

 

命の価値で換算するなら、誰かが重いとか軽いとか評価したところで毀損しないものでははない? と思うのだが自分が軽いって言われているようで気になるのかどうなのか。

 

命論は、ほんと難しいな。

僕は創作物の登場人物にも命を見出すから、現実的な人の命には疎いのかもしれない。ただ、現実的な命を本当に全部重くしようとしたら、歴史上の死者の重みで生きられなくなくと思われる。おそらく日本の国土で人が退場していない空間ってほとんどないだろうし。

 

いのちってなんだろう。きっと誰にも慰撫にはならないだろうが、自分に近いから命であるというのも良いと思う。

 

(全然いのちの話書いてない気がする)

 

では。

 

今宵もごゆるりと良い夢を。

 

 

おやすみなさい。