本質

 

 

美味しい焼き鳥を求める舌を満たすためにスーパーで買ってみたのだが、焼き鳥味の総菜という感じで満足できない。それにタレではなく塩を所望している。居酒屋もしくは屋台衝動。

 

 

「思考する身体」に哲学者の木田元さんの引用(どっかで他の本読んだことがある気がする)があった。曰く、読書には2つの手法がある。情報のためのものが一般的な読書だが、思考のための読書は体得と評すようなものだとか。ベルグソンの「存在と時間」と、ヘーゲルの「精神現象学」をドイツ語の原文を翻訳しながら毎日少しずつ読み進めることによって、哲学者の文体が染み込み、作者流のスタイルでしか考えられなくとか。

 

どちらも読んだことある。ベルグソンさんのは最初の方しか分からなかったが、感覚は質なのに量と捉えられるとするのはおかしくないかという始まりだったような。ヘーゲルさんは何周もしているがさっぱり分からない。やっぱり原文を読まないといけないのか。まぁ、さっぱり分からなくても読んでいれば浸透はしているのかしら。確かに言葉としてしか自分の中にないものが、生きているとひょんなことで実感を伴うこともある。

 

あと、著者が、「ものを考えるのは大変なことだ。さて、何か考えようと目を瞑ってみても、出てくるのは妄想ばかりだ。」だと書いていて、そうなのかと少しぎょっとした。僕は日常的に自分とは離れた思考形式の学とか本を読んでいるためか、考えるための道具も種も随時更新されていて、ものを考えることが大変という感覚があまり分からなくなっている。

 

個人的に歩くと考えるはとても近いところにある。自分が動いて何処かに行くという効果の共通性。対比で言えば、一般的な思考はここに居る為とかここは良いところなのかみたいなイメージ。

 

随分頭の中の風通しはよくなってきたが、それでもまだまだ自分には思考力がないと思っている。新しくて心地良い見解を知っただけでは思考の道具にはならないから、遅々としたミクロレベルの移動しかできない。でも、ちゃんと自分で考えたことは自分の中の血肉になるのは分かっている。

 

こんなの啓発本みたいに考えたら良いよみたいなアドバイスなぞできるはずもない。歩くのを意識するのが滅茶苦茶大変な上に微々たる効果しかないのと同じくらい意識して自分から離れて思考することに特に意味はない。これをやっていくと自分の中にある当たり前も種にしてしまいアイデンティティが揺らぎうる。

 

僕はもっと考えられるようになりたいから選んでやっているだけ。

 

 

さておき。心の話。

 

人の幸福感には脳内ホルモン的に3種類あるというのを立ち読みで読んだ。ドーパミンセロトニン、あと、オキシトシン。繋がりとか接触とか向上とかだったと思う。別にこの感覚は分かるが、ホルモンの為に生きるのもどうなのだろうと天邪鬼が思う。脳が幸せだって捉えているだけのことに意識が付き合う必要もないような。

 

ともあれ、いつもの精神的露出狂。

 

起きてから出勤までなかなか香ばしい精神状態だった。体が反応する感情は、同じような感情の時系列を掘り返してくる。雨にまつわる寂しい記録とか、この季節には毎年同じことを思い出すとか。

 

どうしようもない絶望の感情だわ、これ。一番長く過ごした恋人さんの浮気が発覚してから、第一次お別れをするまでの間の感情なのだろう。

 

僕はどうでも良い他人にいじめられたり揶揄されたりしたことは、ほんと、他人事みたいに思っている。別に僕が返さなくても当人に返ってきているだろうし。けしからんで怒れる人は、どうしてそんなに赤の他人の精神性に期待できるのだろうと思わなくもないが、これはきっと自己防衛のための当然の機能なのだろう。僕にはそういう機能が搭載されていないらしい。

 

この絶望的期間について、共依存でぼろぼろになったんだと解釈してスルーしてしまったツケが返ってきている。もともとの感覚として、自分は自分、他人は他人だったのに、やり方を間違えていた。モノサシを合わせようとし過ぎたからこういうことになる。

 

もう未来の終わりの実感はあるのに続けようとあくせくする矛盾。

自分が真っ二つになる感覚はもう体験したくないな。まぁ、恋人さんもややこしい人だったが僕はとても人格が好きだった。今でも好ましさは変わらない。最高の絶望感を味合わせてくれた人として殿堂入り。

 

 

やれやれ。

 

結局のところ、問題は僕の欠陥にある。これもややこしくて、対自己と、対他人へのバランスが悪すぎるところ。僕は1人になってみると別に誰にも依存しないで良いし自分固有のモノサシはきちんとあるし、ほんと頭の中もスッキリしている。寂しさがないと言えば嘘になるが、これは誰かを抱き締めて寝ていてもきっと収まらない。ホルモンで収まったようには見えるかもしれないが。

 

僕の欠陥は、僕のモノサシを関係において押し通せないところにある。価値で捉えていないから、流される。あくまで相手のモノサシを前提としてしまう。だって、別に他人に正当性を主張するためにモノサシを精緻している訳でもないし。

 

自分では遊べるが、他人で遊ぶことができないという感じ。

おそらく他人を重くし過ぎているのだろうな。アンバランス。

 

僕の生い立ち上、そんなモノサシを持たないといけなかったということもない。他人に流されないと生きていけないなんてことはなかった。母親のヒステリーに対してはポーズで良いし、一過性でしかないのも知っていた。ぶつからないように高校三年生時は遊び惚けていた。もちろん官能的な意味ではなく、ネカフェくらいの漫画本を置いている友人宅で漫画を読みまくっていたレベル。未成年の飲酒は法律違反です(罰則を受けるのは大人だが)。

 

もっと他人とも遊べるようにならないと思うが、遊んでくれる人が果たして存在するのか。公的な建前的なモノサシを私的なモノサシに流用している人とは無理だしなぁ。建前は建前で良いのだが当人の本音はどんなものなのだろうって。

 

架空の思い出の下りで、架空の恋人さんとの生活を創作してみようと思ったのだが、僕は誰かに対して理想はないし、都合の良さで括ってもそんな人はいない。遠距離恋愛で問題ないのは、肉よりも人格を見ている訳で、生活においてプラスになるかどうかでもないし、人格上楽しい人も想定できないという。

 

終わりの実感の共時性はいま好きな人のことなのだろうな。

これから(これまでも)何か起こるべくもないと自分で決めておきながら、恋文を継続するのは背理でしかない。

 

飲みに行っても良いみたいなことを言われた化石くらいの記憶があり、そこに流されていたのかもしれない。おそらく会いたい人には入ってないし。

 

なんでこんなに苦しくなりたいのか。即身仏かよ。

 

もちろん、飽きている訳ではない、返ってこなくても問題ない好きだが、だからといって、いつ捨てられるか分からない枠の中で生きるのはどうなのか。この中だとさっさと捨ててくれしか起こらない。単純に好意とは別に人格的興味があるということであれば、好きを止めた方が良いし。

 

もっと早くバランス取った方が良かったかもな。

 

あぁ、やっぱりだいたい同じか。

いっぱい惰性で送ってしまって申し訳なかったな。

 

良い感じに泣けそう。

良い意味で殿堂入りだからそれで良いでしょう?

 

 

なんだか、あんまり人と具体的に関係してはいけない人物であると自己評価したくなるが、それがなくても良いのだよな。なくても良いのに触ったこともない他人が重すぎるという。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

ほどほどでありますように。