知っているという罪

 

 

夢の前半は良かった。肉体と精神を分けて東に向かうようなところ。速度は関係ない気もするが、空中を移動したり地上を移動したりしていた。

 

後半がとても宜しくない。父親を除いた家族で何かやたら高級百貨店でお買い物をした後、親戚一同で高級中華の場所で会食をするのだが、何か会話が生生しく嫌な感じ。何か否定的なことを言われ。居たたまれなくなって外の空気を吸いにでるのだが、迷宮みたいな感じ。迷ったわけではなく帰りたくなくて、外で長居していたら、「普通は5分くらいだろう」とかって聞こえてくる。

 

その後、叔父さんに喫煙スペースみたいなところで会って、こういうところでは普通は伝票を持ち上げるものだと言われ、え、ってなっていると、ふ、そんなことも知らないのかって笑われる。どうやら生中をおごってくれたみたいなのだが、別に僕はその時飲みたくなかったし、なんなんだって感じ。さらに、それを見ていた妹が叔父さんに話しかけていて、あの人に一番ダメージを与えた(どうやらビールを飲んだら罰金縛りだったらしい)とか話していて、戻りたくねぇなぁとか思っているところで目が覚める。

 

大勢でご飯食べることへの苦手意識の根っこはこういうところにあるのか。

 

という感じで嫌な感じで目覚めた日曜日。

 

嫌な感じになるとネットに潜る傾向がある。ある時期は常時嫌な感じだったから2チャンネルの都市伝説板を読み漁ったり、歩み寄りが全く起こりようがない、ついったの論争を眺めたりしていた。説得ではなく正しさの押し付けであれば双方自分が正しいと思っているだけだから戦争しか起こらない。嫌な感じの気分でないとそこに常在することもできないような気がする。読むだけついったはそろそろめんどくさい。アカウント作れーとやたらと主張してくるし、僕はあそこでは生息できる気がしない。

 

 

本日は、昔の人達の名前でグーグル先生に聞いてみるということをやっていた。一番長く過ごした恋人さんはアカウントを消すつもりはないのだな。更新は全くされてないが。一緒に暮らしている頃に、この部屋で更新をしていたクックパッドのアカウントもまだ残っているという。ネット世界はろくなことがない(主に僕)ことから、ネットを一切やっていないのであれば良いが、現実世界でも退場しているのではという感じがなくもない。まぁ、僕の世界から不可視になったことと、意味的にはあまり変わらないが。

 

あと、地元の人達の人名検索。ついでに自分も検索してみたが、今のところ知らない人ばかりで良かった。僕はSNSのアカウントもだいたい後を濁さないように消しているはず。このミクシィのアカウントは、最初の招待制のころのものではなく、匿名的に作り直したもの。招待制の頃には日記なんて全く書けない。

 

地元検索は、皆現実世界で充実しているのかどうなのか、同級生で気になる人は1人もヒットしなかったが、妹の同級生はたまたま目に入った。なんとはなしに実家の裏山で検索するとどうしたことか、動画を上げている人が居た。ほんとに辺境過ぎてグーグルマップも追って来られない場所なのによく撮ったものだ。

 

観光産業の一環なのか、展望台が去年できたらしい。展望台といえば聞こえはいいが、建築現場にある足場みたいなものでしかない。ほんとは僕にパートナーができたときに連れていって見せたい光景だったのだが、ネットに公開されているのであれば仕方がない。ほんとの絶景スポットは、展望台よりも少し高いところの、頂上にある岩の上から見る光景。これも観光用のインスタに載っていたのだが、インスタを引用して良いのか分からないため貼っていない。大学入ったあと規制するたび原付で見に行っていた。今は道が残っているのかも未知。

 

ほんと、辺境過疎レベルが半端ないため、この展望台の製作者も知り合いだったりする。お父さんではないだろうから、姉の同級生か、妹の1つ下の人だろうな。というような感じで、僕の実家辺りは当時、皆が知人で具体的な固有名称を持った人だったから、まったく変なことができない。中学、高校くらいになると人数が増えて誰が誰か分からなくなってくるが、いうても1000人までいかない。

 

この動画投稿者の母校の中学校一緒らしい。この中学校も去年取り壊されたらしい。部活が嫌で毎日行きたくなかったが、行かないという選択肢がなかったから普通に行っていた。もしかしたら、この人も知っている人かもしれない。同じ時期に居ればという仮定だが。

 

森が好きなのは、森に住んでいたからだろうな。人間関係はがんじがらめなところが好きではなかったが、景色はとても好き。まぁ、廃墟がどんどん増えているのだろうな。今更あそこに帰っても何にもない。インスタの画像はだいたい見てしまったが。

 

郷愁と嫌な感じはとても似ている。自分の恥部とセットだ。

 

 

こんなことも知らないのかというのは、僕の原罪みたいな部分でもある。

夢は、さぁ次はこれ。どうやって乗り越えるんだと言っている感じ。

 

僕は人と接するとき、無知を装うところがある。知っていることで優位を保とうとしている相手を傷つけないようにするみたいなことなのだろうと今は解釈できる。

 

もともと、こんなことも知らないのかというのは、母方の親戚一同が集まった正月に、あんたは叔父さんの結婚式の時に皿を舐めたんだってネタにされたことから始まる。その記憶も残っていないし、単なる場を盛り上げる笑い話なのは分かるのだが、僕はこれを反面教師にした。

 

自分が知らないことは当たり前だし知ろうとすることも是。ただ、自分が知っていることで相手を下げることはいけない。だから、基本的には何も知らないように装うようにした。

 

装いは自分との約束みたいなものだから人と居ると自分は何も知らない人になる。

 

人が自分の知らないことを知っていることを純粋に凄いと評せる人って僕の観測上あまり居なかったし、何か地雷を踏み抜いてしまうかもしれない。

 

鏡理論で他人の無知をさげすむなら自分の無知も自戒できるかなと思ってやってみたこともあるが、全然上手くいかなかった。自分が生きてきた「知」ってアイデンティティだから、そうではないという存在を許容できないのだよな。

 

僕は自分の知はアイデンティティとは無関係としているから、今はそんなことも知らないのって言われてもなんのことはない。知っているか知っていないかだけが問題なことに興味はないし。

 

僕がコミュ障なのは、会話ができないというより、僕の素朴な語彙では雑談ができないというところにありそう。別に誰かに具体的に話したいことなんてなく、聞いてくれるのであれば、話題はいっぱいあるなというくらいでしかない。

 

ほぼ1人になってみて、やっと自分の素朴なものさしに辿りついてきた。

だいたいやべー奴だが、害はないやばさ。

 

 

例えば、僕が誰か過去の気になる人に再会したとして、普通は自分と相手の過去の共通項を照らし合わせることだろうが、僕はそんなことより今当人が何を考えているか、感じているかを聞きたい。来歴も気になる。

 

過去との付き合い方の話。

 

ノラガミ」という漫画を読んでいて、「忘れてしまうなら最初から会わない方が良かった」というフレーズがあった。これはファンタジーで完全に存在自体が消滅してしまうから一般論には還元できないとして、コブクロの歌詞でも「出会う前の2人に戻して」というのがあったな。

 

なんで、過去を改変したいのかというと、過去が悪かったのではなく今が悪いからだと思われる。今だけ楽しむためには過去は置き去りにして良いというモノサシもありうべきだが、今はいずれ過去になるとすれば、とても薄く生きるのだなと思う。僕が過去語りをしているのが過去に囚われているという風に読むのであればきっと近い。

 

でも、薄味で今を過ごすのであれば、未来が良くなることはない。

 

僕の過去の言語化は、今だけの為のもの。自分にある当たり前を可視化して、それに囚われる必要はないと今に語る。今は過去の延長であるし未来は今の積み重ねでしかない。僕が書いている過去は、今を不具合にしているウイルスをサーチして抗体を作るみたいな意味合いもある。

 

こう考えていくと、僕は自分がされて嫌だったことはしないようになっているし、子を成しても良いのかもしれないな。パートナー不在だが。

 

これも1つの道筋。

 

怨嗟の連鎖はほんとどうでも良い。

保護とか尊重って、度を越すとというか、もともと檻みたいなところがある。パターナリズムってまさにそんな感じ。

 

まぁそんなことも知らないの、とは口が裂けても言わないようにしようと思った次第。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い自分を。