精密

 

 

 

帰り道、ふと、今のところどこにも行きたいところがない。なぜだろう。城崎温泉界隈への妄想や京の森の動画で満足したとか、会社から催しに行くのも自粛しろというお触れが出たからか(期間はいつまでなのだろう)、色々い思い当たることを検討したが、別に何処かに行かなくても所在ないことがないのだろうなとなる。おそらく悪い傾向ではない。

 

ちょっと戻って、最近の通勤路でピンクの細かい花の塊が咲いていて、木の滑らかさからコレだろうなとは見当をつけていて、放って置いたら、地元動画の中に応えがあったのだった。実家にもサルスベリは植わっていたのだが、花を意識したものがない、登ろうとはしていた。ひゃくにち紅って、花が長続きするということなのだろうか。カタチと色と、好き。芙蓉も夕方閉じるからか、とても長持ちしている感じ。

 

百日紅の花と月って結構合う気がする。もう少し遡り、昨晩ゴミ出しに行ったらマンションの隙間からちょうど満月近い月が見えて、思わず変な笑いが出てしまったのだった。

 

さておき。

 

昨日書き忘れた忘却の観念の続き。

 

自分が退場した後、誰かに自分のことを覚えていて欲しいかどうか。

ノルウェイの森の直子も言っていたし、一番長く過ごした恋人さんも言っていたし、好きな人もどこかに書いていた。ここでの退場はこの世と生活圏のどちらからも含まれる。

 

一般的感覚としてはどちらが優勢なのだろう。故人に関しては忘れないことが供養になるといった観念はあるし、誰かの中に残るということに価値を置くというのは分からなくもない。長く過ごした恋人さんも、別れた3年後くらいに再会したとき、まだ自分のこと覚えていたんだってきょとんとしていた。

 

僕の個人的なところだと、基本的には相手の中に痕跡は残したくないのだよな。この世から退場した際もすみやかに忘れて日常生活に戻って欲しい。お葬式とかで集まって思い出話とかもしなくて良いな。そこにー私は居ませんー。

 

もう少し具体的に考えたとき、生活しているパートナーとか家族が自分のイベント情報を覚えてないとなると、大事にされてないと推定されるというのは分かる。忘れるというのは人間の当然の機能だが意識して存在を考えていれば働かないことができる。僕はなんとなく無駄に考えないようにしていた節がある。これも知の罪悪感と類似性がありそう。家族の誕生日とか恋人さんの誕生日は流石に覚えていたが、記念日とかはぼんやりしている。

 

でも、ここにおける記憶情報って、知っていることが大事にしていると推定できるという意味合いくらいしかないよな。推定はできても実証はされない。覚えられていると推定的な意味でたしかに、お、とはなるが。

 

これってかなり歪なモノサシだが、生活圏から離れた人のことを対象にした方が考えることができる。これは離れることによって僕固有のモノサシで相手を測れるということであって、相手の汚点を剥き出しにして離れるべき人だったとかにすることではない。

 

一緒に居るときは、覚えているのに言わないではなく思い出せなくなる。

自覚的迷子ならぬ、自覚的健忘症。

 

ここまでくるとたぶんレベルだが、大事だから覚えているみたいな短絡性が嫌だったのだろうな。であれば、覚えているから大事だ(逆)になる。これは論理的には正しくなくて、覚えていないことは大事でない(対偶)が真。

 

ほんと我ながらややこしい奴なのだが、思いの外てきとーには生きていないらしい。

無意識的モノサシは割とよく練られている感じ。僕が自分のことをきちんと可視化できてなかったから色々面倒なことが起こった。

 

言葉による好意に特に心が動かないのは、人が自分程言葉を正直に扱っていないというところにある。言葉だけであればそれは事実ではないし。でも、基本的には正直な言葉だと推定はしている。法解釈学ではほぼ最初に出てくる語用なのだが、「推定」は反証で覆るが、「みなす」は反証を許さないというのを思い出した。

 

忘れる、忘れないの話って、結局当人の鏡っぽいな。自分が忘れないから忘れないでではなく、自分が覚えていていなくても残っていて欲しいみたいな。僕のは自分はずっと忘れないから、さっさと忘れて下されとなっているから、あんまり対称性がない。

 

凄く失礼なのだが、僕はある人が人自体を好きではないと思っていて、実際にメッセージも送った。直感的言語だから、深みを腑分けしないといけない。この人が人を傷つけるような所作をしている訳ではない、もっと、根本的なこと。

 

そもそも人自体ってなんだろうな。僕も、人自体はそんなに好きではないかもしれないと思う辺りここにいる人は三次元的な物体的な意味なのかもしれない。現実界における雑談の雑さとか、他人の捉え方の粗さとか、動きの自動制御とか、基本的に好きくない。たぶん僕が好きではない人自体と、好きな人のそれは一致していていないだろうけど。

 

僕は人類とか枠を拡げたところとか、人の性質とか抽象的にしてみたところとか、その人の0次元性とかになるととても好き。中途半端が宜しくない。属性とか平等の文脈。

 

これは結局自分を捉える精度が誰かを捉える限界なのだろうなという感じだから、自分をどこまでの解像度で捉えるかによる。宇宙の話で、宇宙を10万分の1の精度で捉えたら温度に揺らぎがあるとか、なにしているんだこの変人めとなる感じ。

 

ちょっと精度を高めた自己解釈。

 

冒頭の何処にも行かなく良いというところを考えているとき、優柔不断だと評されてきたなぁという歴史を鑑みる。

 

優柔不断って、選択できないってことだが、別の選択の方が価値があるのかもしれないと迷ってしまうことだと思われる。先に後悔を考えて決断ができない、ないし決断まで時間がかかる。

 

僕の傾向はたしかに結果的にはそういうものなのだが、どちらも等価であるというか、逆の結果に対して後ろ髪を引かれて決められないのではなく、ほんとにどんな結果でも良いというころにあるらしいと分かり、すっきり。

 

自分に対して全肯定みたいなポジティブなところでもなく、なりゆきで良いとしている。

食べ物の選択が分かり易い。プリンを食べたいと衝動したとして、結果的に食べなくてもやっぱり食べたかったなぁという後悔はない。

 

人との関係性においてもそうで、あんまりどうなるかは気にしていない。どうであるかだけ。

ここは、あんまり良くない人は無意識が排除するらしいし、これもなりゆきである。ちゃんと当人に意志があったら、僕はどこかの時系列で人生上のパートナーができていたかもしれん。

 

僕のどっちでも良い、どうでも良いは、投げ槍ではなく、どう転んでも、価値は変わらないという肯定。今まで雑過ぎた。

 

僕自体はあんまり意志的に生きている訳ではないが、方向性も根もきちんとあるみたい。

 

最後。

 

教養の会計学で会計は物語だというフレーズがあった。

ここから、世の中のほとんどは物語だよなとなる。

 

物語の定義を言語化すると、物を語るのだから、事実とか史実を語るのだとなるのが通常線。自分を語って下さいって言われたとき、自分がどこで生まれて、何が好きでみたいなところで語る人は、自分の歴史の中で生きている。

 

僕はこの語られる物は事実よりもっと抽象的で観念的な存在だと思っており、自分の中にある概念を語る人がとても好き。でも、普通に考えて、自分の中にある概念をあえて可視化することも、それを語ることができる場も現実的には生まれない。

 

でも、語り手、読み手で分けたとき、人の現実的挙動が存在を物語るときもある。物質的な体は、言葉よりも物を語る。

 

こういうのが一般的な意味では人間性になるのかな。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。