アンバランス

 

 

赦す、諦める、そもそも期待しない、これらは現象としては同じように見える。ナカが一番調うのはどれだろう。個人的には期待しないが精神衛生上良さげだが、期待と現実の差分が幸福感・不幸感を決めるのだとすれば、対象によって細々期待を調整しないとならない。

 

これって色々事象を当てはめてみると面白い。そもそも期待しないなら接しなくても良いとなりそうだが、他の効用変数(次元)が入ってくるとややこしい。

 

例えば対象が恋人の浮気だったらどうだろうと過去の自分を持ってきて思考実験。何回も書いているから恨みつらみがあると推定されそうだが、そんなことはないです。恨むとすれば対象は自己である。

 

事象が起こることはコントールできないとして、そもそも期待しないということは浮気をするかもしれない相手とパートナー関係になるということであり、これはどちらかというと自分に期待していないのだと思われる。自己価値が低い。もしくはそもそも多数恋愛主義であれば期待の対象ではないが。

 

自己評価の低さの文脈なのだろうが、僕は相手より自分が赦せなかった。僕がもっときちんとしていれば、相手に浮気をさせるようなことはなかったろうって。今想うとこれって相手の現実をコントロールできるという前提があって、とても傲慢。諦めてしまえば今度はそれでも一緒に居るのかということになり、僕の意思はそれを選んでいた。しかし、自分を赦していないから完全に自分が分裂する。

 

そうか、僕が赦しつつあるのはこういう自分なのか。相手に対してはそもそもそんなに期待値がないのに、期待することが好意の表明みたいな一般論に流されていた感。期待がないことと、好意は全然連動してない。

 

(あれ、だとすると私信も許して良いのでは)

 

そういえば、ハリーポッターの「炎のゴブレット」で、ロンが自分の代わりに憤ってくれることを嬉しく想う描写があって仲直りして良かったなぁと思ったが、僕がそれをされても全然嬉しくはない。まぁ、僕は世界に対して特に怒ってないからか。怒りでコントロールできる事象はとても悲惨だとしている。相手の為に怒るのは叱るだし。

 

さておき。

 

ちらっと日記。

 

なかなか不快指数が高そうな1日。残暑の最後の本気なのかまだまだ余力があるのか。自分がしんどいのに人のことを気にしてくれる返信をいただき、「優しい」ってこういうことなのではと想う。

 

仕事は、公私混同している女性上司の仕事振りを見かけてまぁ確かに機械になりきれないのが人たる所以だなと思う。話し方とか声に対する生理的嫌悪はどうしようもないし避けられるものであれば避けた方が良い。僕もこの人はねっとり話すとは思って最初苦手だったが、今や愛着まである。所詮仕事だし特に話が通じないということもないし。

 

むしろ女性上司に対して忌避感がある。これはこの人が典型的な「そんなことも知らないのか」のモノサシと見受けられるから。別に僕に対して言っている訳でもないし直接言うわけでも無いのだが、そういう発言を聞くだけでやや障りがある。こいうのって場で自分が優位だから成り立つ論理であって、何かそうやってしいたげられたことがあったのでは穿ってしまうな。

 

先生と呼んでいる上司にはそういうところが一切ないため色んな人に使い勝手が良い風に扱われている。損で好ましい人格。

 

帰り道、オレンジの彼岸花を見つけた。なんで今まで目に入らなかったのだと思ったら最近はこのルート通ってなかったから。でもとっくに彼岸花の季節ではないのでは? あれ去年の季節と混同している? と、はてなを積み上げながら帰る。

 

その後考えていたのは、能動的に生きたいものだ、とか、注意深く生きることと集中することは全然違うな、とか。注意深いはかなり漠然している。生きることを意識することで、集中は注視と似ている。注視は意識的かというとそうでもなく、無意識がフォーカスしたところをただ見ている感じ。ニュアンスが微妙過ぎて言語化しきれないのだが、個人的感覚としては全然違う。無意識フォーカスは脳が大事だとしていることかイレギュラーだけであり、日々の害がない光景の中に意味を見出すことがない。

 

 

さておき。

 

昨日、考えていることは忘れないという話があった。たしかに今考えていることは時間的に記憶の対象外だから正しい。あと、もう1つ、自分が書いたことは忘れないというのもあるなと自分ルールを暴き出す。1語1句諳んじることができることではなく、どういう意味だったのか、どういう心象風景だったのかという意味。

 

そこで、本日PCに新規フォルダを追加した。タイトルは、「概念書き殴りごった煮」。1つ30分で1000文字くらいの法律学の概念を書いて入れた。「二段の推定」という民事訴訟法では有名なもの。色々ぶん投げていこうと思う。書くという行為は言葉による固定というより、自分に何が書けるのかという可視化になる。左脳を行使しながら視覚も見ている。脳科学者の池谷さんだったか茂木さんだったかが「現実」とは五官のうち複数が一致することだと書いていたことからすると、書いたことは当人にとっては現実になる。読む人にとっては視覚だけだから現実とするにはやや薄い。

 

最強の現実感は視覚と触覚の一致だと思うが、個人的にはこれって主観的な現実感の外にある客観的世界が把握されるだけであり、ホログラムだと解釈したところで特に変わりはない。どう解釈しても主観に影響がない世界観。試験官の中で脳が見ている電気刺激の夢みたいな解釈が出てきても仕方ない。

 

触覚も視覚も受動的に世界を捉える器官だから、能動的な実感がないのだと思う。

そんなところに現実を置いて良いんですか? という話。

 

そういえば、○○性△△障害という精神性に名前を付ける言葉を見かけて、僕も自分の精神的欠陥が何か名前が付くのはないかと探したことがある。生き辛さの理由が付くのではないかって。乖離性人格障害が近いのかなとなったが、最終的に名前は付かないのだろうな。

 

この名前付けって、社会性からはぐれた精神性を持っている人に対して、逃げ道を作るもの。聞こえが悪いような感じがあるが、特に他意はない。僕ははぐれ者の精神性の方が好きだし。そもそも社会性ってなんだろうなって考えてしまう。空気を読むとか、学習機能とか、社会的に健康とされている人がほんとに持ち合わせているのか、とか。

 

英語のテキストが今心理学の項目になっているのだが、会話文で、どれだけ他が良くても時間にルーズな人は駄目だっていうのがあった。僕は時間にはルーズではないが、時間にルーズって、相手の時間に価値を見出していない=相手のことをどうでも良いと思っていると、社会時間で生きられないが相手のことは思っているが混在している。

 

結果的にはルーズだが、全然違うわな。僕の過去の知人は、割と社会時間で生きられない人が多かった。ただの友人との待ち合わせで2時間待たされるってなんなんだ。ただ、この友人も社会人として普通に過ごしているし結婚したし、ちゃんと自分が重きを置いている対象については時間を守るのだろうか。別に幸せになっているならそれで良いし、全然恨みはない。ただびっくりしただけ。

 

未だに着信が時々入る知人も、僕との時間についてはとてもルーズだった。大学時代は僕の部屋に入り浸るし、その後の飲みの待ち合わせでも、僕が後に行くことはほとんどない。

 

あれ、これらって叱る案件だったのか?

 

2人ともきちんと社会人はやっているだろうし、何だったのだろう。

僕に対しては当人の時間軸になっていたのか、いやそれなら僕は時間的に損しまくってないか。バイト先の先輩だった人も僕の時間については全然尊重してくれなかった。

 

なんだこれ。

 

全然友人でなかったのでは。

まぁ、僕は1人で過ごして十分野郎だし、あえてまた会って過去語りなぞしたくはない。

 

なんだか僕の時系列、色んな人に都合よく扱われてきた感。

で、都合よく扱った人は全て断捨離して今に至る。

 

こう考えると、1人になりたかったのは当然。

モノサシが全然違ったのか。モノサシが近い人はなかなか居なさそうだが。

 

社会性が他人を道具として扱うことにあるとすれば無くていいやな。

 

若干怪しい人物が居るのだが、別に僕が居なくても関係ないなら離れるべきよな。

レッテル貼る言説は障る。テレビを辞めたのがこれなのに、流れてくるのはいかんとも。

 

そういう自発性を赦すのが主観的世界。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い主観を。