蒼を枕にして寝たはずが起きたら抱いていた。6キロくらいはあるはずで重かったと思われるのにどうしたことだろう。人肌が恋しい訳でもないはずだが。いやはや、不明。
出勤路。精神にも慣性が働いていて、慣性から外れることをするとエネルギーが消費されるのだなとか考えていた。ここまでは良い。
仕事で失敗も起こる。いや、失敗だったのか定かではない。女性上司から、「この案件では意味分からないんだけど、どういう意味だったの」と聞かれる。別の上司に渡した案件が回ったから伝聞になって余計にそうなったのだろうし、僕の知識不足だったのも分かる。一応答弁をして、分かりましたって言われたが、別にやり込めた気もしないし、分かってもらった気もしない。
こちらから言葉が合わないと思っているということは、相手からしてもそうなのかもなと思った次第。昔だったらもう少し寄れた気がするのだが、雑談に付き合って仲間になるのは仕事の範囲外なのではと思うようになっている。
もちろん、別に否定している訳でもなく、この人の人格はそのままでいいと思う。ただあんまり聞きたくないなという感じ。ぶっきらぼうだし、そんなに正確ではないという印象が否めなくて。まぁとても人間的な人ではあるとは思われるから、相手からすると僕があんまり人間に見えないのかもしれない。ありうる話。
人間が一番難しい。
僕はこういう意味で、言葉に対して万能性があると思っておらず、通じるかどうかなんて相手によりけりとしている。正確な文章が分かり易いわけでも無く、分かりにくい言葉が非言語で通じてしまうとか、言葉を特に気にしない層も居るとか、諸々。
まさにここがそうで、僕の中でもっとも自由で柔い部分だが、誰かに通じるべき、きちんと読めば文意が読み取れるなんてない。もともと文意がないし、説明しようともしていない。
「思考する身体」を読み終えた。最後の章で、舞踊は無言だが雄弁だというフレーズ。舞踊を読み取るために必要なのは語彙ではなく人生経験である。人生経験とは、どれだけ人の人生を過ごしたか、相手になったかであり、これこそが言葉の世界だと締められる。僕にとって言葉はまさにそうだなと、暖が取れる。自分を生きるためだけに扱われる言葉は、その中では通用するが、外には向かわない。言葉は自分という肉の枠の外を読み取る、書き出すものであって、伝える、説明するであれば、言葉は手段の1つという立ち位置になる。
罪悪感について。
呪詛的な単語(おそらく当人はそんなに重い意味で使用していない)が見えないようにするため断捨離をした。なんだか身を軽くする終活をしているようだ。
猛烈な罪悪感。たかがインターネット世界におけるブックマークみたいな意味でしかない繋がりを断ったところで何か現実的な影響がある訳でもないし、もちろん相手のことを否定する意味合いは全くないのに。
いや、ないなら現状維持しとけよと、自己防衛のための決断をしたことに対して、自分の内側から攻撃される。罪悪感は自傷行為と近い。別にそれによって自分のアイデンティティが保たれる訳でもなく、生きている実感があるわけでもないから、ほんとにただ自分を傷つけるだけ。
女性上司の件も、ただ合わないとかタイミングでしかないのに、何か自分が悪かったとしてしまっている。
1人で過ごしているときの安定感から鑑みるに、対人関係だけ圧倒的にアンバランスだ。正しい関わり方というモノサシはないのに、悪いことだけがある。ここまで来ると、僕はもともと人と具体的に関わることを悪としているのではまである。
いやいや、相手にもきちんと固有のモノサシがあって、勝手に僕と関わっているのだからお互い様ではという言説が理屈では出てくるのだが、理屈で無意識が納得することはなく。人に忘れられたいというのも、片面では僕は忘れられても不変だという自己観と、相手と関わった痕跡を残したくないという罪悪感がセットなのかもしれない。
なんで悪なのかと分析すると、仲間になれないからかもしれない。相手のことは理解しようとはできるし、相手になった想像はできるが、自分とはあくまで切り分けてしまう。切り分けないようにしようとするとこんがらがる。
要は、素朴な自分のままでは他人と関わるのは禁忌びのリンゴとしているのかも。
僕は割と相手に合わせることはできるからその世界の中での存在としては生きていけるのだが、無理が出てくるのは否めず。
自分が自分であることは赦したが、対人ではあんまり赦してないではないか。
こういうのは、名前が付いた近い仲でするべきだって言っても、こういう仲も仕事めいてきていかんとも。
と、考えていくと、この罪悪感は、領分を犯さないためのストッパーみたいなものなのかもなと思わなくもない。僕は僕の中で練ったモノサシはあるが、これは自分のアイデンティティはなくても構わないというところから来ている訳で、モノサシと自分の人格的価値が直結している人に語るのは毒でしかない。
もしかしたら今後もっと開ける存在が顕われるのかもしれないが、そういう存在が居ることが自己観を高めることもない気がする。こういう意味で、僕の素朴を読んでいる好きな人は離れがたいし、一刻も早く離れなくてはとなる。
どうでも良いが、英語のテキストで、「良い人はいっぱい居るよ」という慣用句に海にはたくさん魚が居るという文があるのがなかなか。それくらいの感覚で人を捉えた方が良いのだろうかというか、そういうのが一般論なのだよな。
まぁ、ここを赦すのが次の段階のはず。
あんまり他人の世界観を壊したくないところではあるが、僕に逢ったのが運の尽きとするのが最終形っぽい。いや、そうすると誰かの中により残るようになってしまう。ジレンマ。
書くことは自分と世界の誤差を調整する効果があるのかもな。
幾分か、罪悪感に対してもすっきりした。僕の罪悪感の根源って、1人で大丈夫で申し訳ないかもしれん。
ニッキを漂っていたら、長文日記があり、長文日記は説明になって、読み手が参画できないというのがあった。参画の意味は対話っぽかったが、対話したいならそういうメディアにすれば良いのではとなりつつ、なんだか僕が昔書いていた日記みたいだと思う。あそこまで長文は書けないが、読み手がどれかに引っかかればという釣り糸を垂らす感じ。
今やもはや釣り糸は垂らしておらず、参画は僕の文章を読んで当人が何かを考えることであって、僕にそれが読めるカタチになっているかどうかはどうでも良い。良く参戦してくれるものだという変人に対する賞賛。
沈んだ書き始めからしたら随分浮上して終わり。
まだ突き詰める余地があるらしい。
僕は優しくもないし賢くもないと諦めよう。
おやすみなさい。
暑さに負けていませんように。