やさしさ

 

 

 

やさしさとは包むことなのか包まれることなのか。

 

 

ホタルブクロの花弁を模しているようなレトロな卓上ランプをベージュのタオルケットが包んでいる像。一目、この包んでいるものがタイトル通り「やさしい男」なのだろう。包み方に柔らかさと丁寧さが見える。これで納得、美しい作品というところに尽きないことが楽しい。像を頭に残して遊ばせておくと別の見方も現れてくる。このランプには火が灯ってない。灯ってしまえば包んでいる対象と共に燃え上がるに違いなく、包めるように灯らないこともやさしさなのではないか。一連の作品には男性が2人、女性が1人登場しており包まれる対象が女性とは限られず、ランプの方が「やさしい男」でもありうる。さらに、このランプは本来2つ付いているはずだが、1つは笠がない。これが「やさしい男」を示しているのかもしれない。登場しないというやさしさ。

 

製作者の意図は分からないが解釈が時間を置いて発展していくとても好きな作品。

 

 

はい。カット。

 

好きな人が参加して撮っている写真作品の中に目を引いた画像があったため、即席で短文の鑑賞文を書いた。URL貼って見てもらいたいのだが、こういう著作権とか礼儀作法が分からないし、この場の運用ルールもあるし、やめておく。ほんと良い写真。僕は個人的に、「包まれる」やさしさに美を最も感じたかな。ほんとは自家熱を持っているのに包まれるままにまかせるやさしさ。

 

たまには真面目にスケッチ。

言葉は楽しい。

 

 

さておき。

夢の話から。

 

何か筏のようなものに何人かで載せられて、イメージ的には千と千尋の神隠しの後半にあった水の上を電車が走るみたいなシーン。猫が水底に横たわっていて、あぁ、と思うが風景は流れていく。今度はたぬきが横たわっているのだが、今度はむくりと動いていて生きているのかとなる。たぬきの後には狐も泳いでいる。そのうち振り落とされ、たぬきときつねが水中にわらわらしている中で泳いで目的地らしい工場のようなところに辿りつく。

 

泳いでいる間に眼鏡と財布と何か(忘れた)を落っことして、インストラクター風の人回収してくれていたらしく、当人のリュックの中にあって漁って居たら、一応許可は得るべきではと言われ、たしかになと別の部屋に行って話して帰って来ると、盗まれていた。盗んだ当人が、7人で盗んだ、今までにない方法で、と豪語している。最終的に、残虐なシーンがありつつ(仲間割れ)、仲間割れシーンを見て、取り戻そうとする執心がすっかり失せ、もう返ろうと思いつつ、事件になるだろうから筏は動かないのだろうなとか想っているところで目が覚める。

 

よく分からない夢だったが、執心が冷めるというイメージだけ残っていて、なかなかすっきりした目覚めだった。暗示もややこしや。

 

出勤の道すがらは、フェンスに咲いている慎ましいアサガオかわえぇなぁとか見ながら、咲きっぱなしと、時間によって開閉する花の違いってなんなのだろうなと植物生理学的なことを考えていた。開閉した方がおそらく長持ちはするが、花が長持ちしたところで、花粉を運ぶ虫に対して優位になるのかというと、トータルではあんまり変わらない気がする。どういう意図なのだろう。意志と意図は似ているようだが、個人的には意図の方が目的がきちんとある感じ。意志は目的に適わなくてもありうる。

 

仕事では、女性上司から何事もなかったように話しかけられ、杞憂は無駄だなと思った次第。

僕が残しているようには人は僕のことを残していないと自覚しろ。

 

これはいいとして、「気にする」、「気にかける」、「気になる」はそれぞれ別の概念なのだろうなと考える。これは分けないといけない。一番の害悪は、「気にする」。能動的に相手のことを考えているようで、そもそも相手のことは自分と同列には分からないのだから、独善的というか、独悪的になるしかない。怒りの対象の人物とかすぐ通り過ぎているらしいし。

 

 

気にすべきは、気にかけたり気になったりする対象の方。こちらは自分の効用とは連動してない。ほんと、罪悪感は絶滅させるべき感覚だわ。これらの対象に対しては、別にそうであることを発さなくても良い。個人の勝手だから。

 

気にするになると、相手と癒着しているから発することも込みになる。

癒着しているから重いのかとなると僕にはあんまり判断つかないな。

 

 

あぁ、そういえば、今日立ち読みした本で、本当の自分を見つけるというのがあった。曰く、最初の自我は偽我であるとのこと。たしかになぁと思う。外から持ってくるというか学習されたのが最初の自己観だし。アプリオリ。これで見ると、正しさを押し付けることができる人は、偽我の中で生きている人だと思われる。どれだけ体験的経験を増やしたところで正しくないものは切り捨てられる。

 

偽の帽子を被っているという表現、好き。

被らされている帽子は何重なのだろうな。

 

自分の語彙で言葉を扱うのはとてもめんどくさいことで、これを生活に組み込めるのはよほどの暇人(僕)以外はない。伝わるべきとして書くのであれば、当人の語彙ではなく、共通語彙になっている。コピペは脳の機能を低下させるということだが、低下させることで仲間がいっぱいできるのであればそれで良いのではとも思う。人って、本当に何の拠り所もない個人であることなんて求めてないし、ざっくり個人主義とか、平等だとかコピペ的に概念を扱っているだけで良さげ。

 

文章読本で、毎日書くことで自分が繋がるというフレーズがあり、勝手にそんなことになっているという。

 

忘れていく情報。数字って何かと結びつけないとすぐ忘れてしまうが、忘れて切り替えることができて、識別できるものとして開発された道具なのかなと思う。自分とは連動しないで良い概念。

 

語彙と世界観。

 

一昔前にネット上で関わった人が、僕がどこかで読んだ感情のバリエーションは語彙によるということを書いたとき、自分の感情が拙いってことなのかと吹き上がったことがあったのだが、たぶんそうですよって今なら言えそう。感情の語彙って、あくまで自分の感情に言葉を当てるみたいな意味しかなく、感情自体ではない。ほんとの感情って言葉じゃ足りないし。世界観に対しても、何か気の利いた語彙を増やすとかではなく、自分の語彙はどうなのかのかと検証して初めて自分の言葉になる。でも、言葉は自分だけのものにもできない。共有財産みたいなもの。

 

言葉は共通項としてはどういう風にも扱えるが、当人にとっては血肉みたいになるから。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

上手く生きられますように。