言葉と人格

 

 

 

昨日の鑑賞文に違和感があると思って今朝確認して直した。ランプシェードのかさは、傘ではなく笠。あまり使わない意識したことない漢字だったがなんだか変な感じはした。なんだか、自分が作った料理で、あ、このピーマンあの時に切り幅を間違えたやつだと気付くのと似ている。器用な人には通じなさそうな感覚。

 

さておき。

 

アサガオに挨拶しながらコンビニに向かうつもりだったが、タイミングを逃してしまった。休みの日はどうしてもタスク管理が甘い。割と任せっきりだから、逃したところで残念でもなく。好きな人に花のイメージを当てるのであればとても近いかも。タイミングが合わないところとか、一定の時間(人生)帯にしか見えないところとか。朝ではないからヨイガオかな。

 

本日の概念ごった煮には、遺棄罪の概念を入れた。思いの外まとまらなかったため、まだ書き途中。2つの概念が組み合わされるテーマだった。僕が言葉の意味が多角的であると学習したのは、最低限のルールを規定しているはずの法律が、場合によって言葉の意味の中核を変えているところ。ここから日常でも普通に使い分けられているよなというところに至る。だから丁寧に自分の語彙を扱っている人が好き。

 

遺棄概念が個人的に気になるのは、一番長く過ごした恋人さんが好きだった映画が「誰も知らない」だったから。だいぶ古いが、ネグレクト問題を先取りした、実際に保護責任者遺棄致死罪になった事実を元にしている。ちなみに鉄コン筋クリートも好きだった。

 

ここで保護者の義務とか持ち出すと僕の日記にはならない。遺棄の概念には、安全圏から移動させることと、安全圏でないところに置き去りにするという要素があるということらしい。単純遺棄罪は両方満たす必要があるが、保護責任者遺棄罪になると後者だけでも犯罪になりうるし、あと保護しないという不作為もあってややこしい。

 

この類型の細かさはともかく、安全圏に居る人の生命・身体を脅かすことは社会的に許されないとしていること。あれ、では精神世界でこれをするのはどうなのだろう、とか、民法の離婚原因でも「悪意の遺棄」ってあったよな、概念上同じだとすれば、夫婦空間って安全圏なのだろうか、だろうな、とか。

 

法律関係の概念論をあまり書けなかったのは、思想から離れて現実社会・生活で思考実験するのが障ることもあるかもというところ。僕は一般的に同情するくらいなら具体的に何かするとか祈るとかになるから、そういう風に言葉は扱いたくない。でもこの語彙で何の正しさが満たされる人も居ることも知っている。

 

まぁ、物理的安全圏は社会から保護されるが、それを保てたとしても精神的安全圏とは等しくないということか。精神的安全圏は法律では守れない領域。名誉毀損罪も侮辱罪も社会的な評価だし、一定の守られるべき精神世界を規定しまうと人の思想の自由を侵してしまうというジレンマ。欧米では精神ケアが厚いという話をアフロの学生が主人公の漫画で見たが、たしかに社会で生きる上の精神性は現実的なものだから、もっと社会で守って良いと思う。PTSDとか鬱とか。

 

ただ、人の多層性は精神だけにも留まらない。

 

潜っていきます。

 

僕が何を持って人を読んでいるかというのが、ブラックボックスみたいなところがある。現実世界では、発話よりも態度とか機微的な所作とかなのだが、これは偽我的なその人なのかもしれないなとなったのが昨日の立ち読み。社会的な所作的な自分って学習された社会性によっている訳で、だからこそ文化圏でまとまれるのだが、それはほんとうに具体的な個人なのかとなると怪しい。

 

別にこの動きは社会を生きるための自己防衛だから問題ない。本当はもっと突拍子もない人格だとしても装わないと出る杭として打たれてしまうのが日本。とすると、ここに顕われているその人は、全然当人そのものではない。

 

で、当人そのものだと自覚されている自分は、おそらくもっと範囲が収束した家族とかパートナーとか友人とかには見せているはずだが、これも偽我の帽子を被っている限りあまり変わらないように思う。いや、偽我だと認識していないから、ほんとの自分だと思い込んでいる節はあるのかもしれないが。

 

この近い人だけ大事とする、想うというのは、ホモサピエンス由来の本能っぽいなと思うのが、「時のほかに敵なし」でその時代の人類の描写を読んでいるため。ハイエナとかチーターとか外敵があって死が近いところの生活スタンス。

 

まさに今という感じだが、外敵が目に見えないからまさに死とか危険の概念そのものが相手になっている。この渦の本を立ち読みしたが、結局普通の予防としての睡眠、免疫、ストレスを少なくするのが最強じゃってお医者さんが言っていた。

 

ちょっと本題から逸れるが、このまま「死」の概念について。

 

「思考する身体」の作者さんがあとがきで書いていた。曰く、人生も死も生物学的なものではなく、社会的なものでしかないとのこと。誰かさんの言とちょっと似ていて面白い。確かに、僕は死についてはもうあんまり気にしなくなっている。いつでもできるし、生物的に消滅しても奇特な人の中にはしばらく存在としては残ってしまうくらいのもの。そんなこと気にするくらいなら、いまをきちんと生きる方が大事。

 

死への怖さって、自分が生物的に死ぬというより、この自意識がどうなるかに重みがある。痛さとか苦しさも気になるところだが、おそらく脳がこういうのはシャットアウトしそう。よほどのことがない限り、意識は先に途絶えて痛さも苦しみもない。緩慢に死に向かう意識が怖がっているだけ。

 

で、自意識って完全に独立しているわけでも無く、誰かとか何かとかとの繋がりを要素としていて、ここに残す、残りたいというのがありそう。自分の存在を継承することと、生物学的に種を残すことの混線。

 

人生が積んでいくものだとするから、なんだかややこしくなるのではという感じ。

どちらかといえば、自分の存在が消えた時に喪失感を感じてくれそうな人こそ大事にすべきなのでは。逆っぽいよな。自分が大事にした人に喪失感があって欲しいではなく。

 

で、戻ってきて。

雑談をぼろくそに言っていた気がするが、最終的には言葉こそ読むべきものなのではとなてきている。

 

言葉には顔がある。

 

という言葉が出てきたのは昨日の日記とかから。僕は好きな人は好きだが作品に対してえこひいきをすることはない。自分の中に言葉が顕われるかどうかを問題にしていて、書くまではタオルケットとランプの1つのやさしさまでしかなかった。もう1つの笠を被ってないランプは書きながら出てきた言葉。

 

あと、マイミクさんだったり、マイミクさんではなかったりする人とのやり取り。

 

言葉の扱いって、ほぼその人の世界観を示しているよな。たしかに装えるもので大言壮語も吐ける道具ではあるが、そんなのすぐバレる。相貌識別障害でもないが、顔がある言葉とない言葉は分かると思う。

 

具体的には、敵みたいな概念に対してどういう風に評するのかがまず1つ。女性上司、アイツは話が分からんとか、生理的に好きじゃないとかで、先生は、悪い人ではないのだがと評す。

 

あと、怒ったときに、他責にするかどうか。

しんどいときもそう。

 

はぁ、すっきり。

現実で良い風に言葉を扱うことはできるが、連動していなければ違和感。

 

インターネット世界においては言葉が全てだが、主観的に匿名的に過ごしているだけなのか、客観性をもって過ごしているのかは言葉の扱いで読める。

 

やっぱり言葉はすげぇな。

 

ここでいう言葉は、世界を解読する道具であって、たくさんの単語の中身を吟味しないで知っていることではない。もちろん、世界を描写する道具は言葉以外にもいっぱいある。画像でもコピペでもニュースでも。ただ、そこに本当に当人の素朴が存在しているかというと微妙なところ。

 

まぁ、顔がなくても生きられるのがいまの世界。

 

僕の顔は自分では見られないが、誰かが認識していてくれるだけ良い。

すぐ忘れられそうだが。

 

こんな感じでおしまい。

 

おやすみなさい。

 

夏休みの終わりの感覚を想い出して悶えていませんように。