あるがまま

 

 

 

フラットでフリーダムな心持ち。アクセスに名残惜しさを読み取ってしまうのは自意識過剰的解釈。傷心に浸るのも大変。日記は更新するって書いたよな。

 

まぁ自分の声に覇気がなかったのはたしか。聞き返されるのは久々だった。自分の声の通らなさにトラウマがあって、聞き返されるのがトラウマだったのだが、今は、声が通らないもあるが、相手の想定外の言葉を発することが聞き返される要因だったのではとも思う。

 

たしかに素朴な僕は目に入るものと頭で考えているものが会話と並行して捉えられているから、めちゃくちゃあっちこっちに言葉飛び散る。もちろん話は聞いているし飛ぶ言葉も好きだが、聞くのは大変かと思う。

 

 

起きたとき、何故か、長く過ごした恋人さんと再会した当初のできごとを思い出していた。もうとっくに生活圏の外に居ると思っていたのに、電車で行けるとこに居て。カラオケで歌いもせず唇を貪り合う。何駅だったかはまだ出てこないだろうが、こういう封印された思い出も折りに触れて出てくるのだろうな。何を話したとか。再会できて手放しで喜べるような関係ではなかったし、いまとなってはきちんと終わらせるための再会だったのかも。終わっているから出てこられるのか。

 

心の具合があの頃と同期したともいえそう。

 

そう考えると、僕には誰かと居て楽しかった瞬間はほぼないのかもしれない。

いや、安らいだとか、どうしようもなく愛しいとかなら、あるのか? はて。

ことさらに無防備というか、無警戒は通常営業だもんな。

 

 

さておき。

 

地元動画を一度見たからか、懐かしい動画が流れてくる。「ハズムシ」という蛾の幼虫を知っている人ってどれぐらい居るのか。実家の方では毎年大量発生して、道路にぺちゃんこになったコイツがここらへんでいうセミよりも多かった。触れると頭を振り回して緑の体液を撒き散らかす。この緑色に異質さを感じていたが、葉っぱしか食べてないのだから緑なのは当たり前か。検索はしない方が良い。

 

 

そういえば、野菜がやたらと高い気がする。食材のバリエーションが少なくなってしまう。ということで、レンコンを久々に買った。レンコンとバターって結構合う。鶏肉とピーマンと人参で、筑前煮のような色合いで味はあんまり和風ではない炒め煮を作った。バターで炒めて、鶏ガラ顆粒、醤油、お酢で味付け。書いていても想像つかない味だが、美味しいのはたしか。

 

 

やれやれ。

 

この精神具合、あんまり文章を書くには向いてないのかもしれないな。本を読んでいるときには色々考えていた気がするのだが、日中はほとんど発想が生まれなかった。冒頭で書いているような言葉が思い浮かび、オートリピート。

 

なんというか、僕は他の人が同じことをしたらストーカー認定されそうなことでも何か住ルーされる傾向にある。別に誰から構わずすることではないが、相手がどうなのかという確証がないところでやっていた。

 

一番危なかったのは、長く過ごした恋人さんと第一次お別れをした2年弱後に、かなり長文の手紙を送ったこと。たまたま本人が読んだから良かった(?)が、知らない人が住んでいることも想定して、一枚目に、「宛名以外の人に届いたら、できればこの後は読まずに破棄してください。」と書いた。良心の問題だから読んでも文句は言いませんとも。

 

今想うと、無茶苦茶無謀な冒険だわ。この人にはもう言葉が浮かばないから書くことはないが。ちなみに内容は、あの頃貴方を否定していた人のグループとは離れましたとか、「私は貴方の為に生きていない、貴方も私の為に生きてない」という某心理学の文章を引用したりとか。下書きはワードで書いたのだが、そのデータも今やない。

 

好きな人(これからヨイガオさんと呼ぼう)への恋文も、普通に考えれば無茶苦茶よな。

個人的に社会規範はどうでも良いのだが、そこを大事にしていると見受けられる人に許されるのはどこかおかしい。

 

無駄に真面目で、無駄な嗅覚(視覚? 味覚?)。

 

僕にとっての好きな人は、ある意味、ニュートラルの無軌道性を制約する機能がある。だからと言って、性に乱れるということはないのだが、やたらめったら好意を集めてしまう習性。結果論だが。気になっているうちにそうなる。

 

これは、大事だから覚えているという規範から離れていることによるのだと思われる。

誰かが覚えてないその人のことも残っているが、それは印象が強いからでもない。

 

自分こわ、と思ったのが、まず、昨日の昼休みに大きめの公園でご飯を食べたあと煙草を吸いに行くとき、遊具に座って弁当を食べている女性が一瞬目に入り、こんなところで食べるんだと思ったあと10分後くらいに通り過ぎる女性の中からそれらしき人を識別できたこと。別に顔まじまじ見たわけでも服装を記憶したわけでも無いのに。

 

もう1つが今日の帰り道で、勝手に烏の森と呼んでいるカラスの住処だった森を切り崩してできた住宅地。たぶん買った人達夕方に烏がたむろするから損したと思っていそう。その通りの手前にもマンションがあって、駐車スペースがある。ある1台のスペースには黒い軽が止まっていて、今日は空いていた。ちょうどそこを歩いているとき、後ろから黒の軽が走ってきて、これはここに止まるやつだなと思って、それ用に自分は勝手に動いている。案の定止まって、自分の記憶力ではなく無意識情報の蓄積が若干おそろしげ。

 

ちなみに僕は車に疎いので車種とかカタチとかほどんど意識的に識別できない。

 

人って記憶力良いんだな(他人事)。

 

僕はたぶん人のこともここで見ていると思われる。意識的に見えたり残ったりしている部分ではない中核。ヨイガオさんともほとんどやり取りしたことないのだが、とても懐っこさが読み取れてしまうという。正しいとかそういうモノサシではなく、感情で都合良く操作した解釈ではないから、そういうものだと捉えるしかない。

 

僕が同期を気に食わない(危なかっしくて気になるがあまり関わりたくない)のもここ。人のこと全然大事にしてない人だわって。いや、これが一般人の標準だろうから装えるとは思う。

 

気に食わないと気になるは両立される。

よく見ると肌が荒れていて、ストレス(免疫)大丈夫かって他人事的に気になってしまう。

 

まぁあくまで仕事場で自分を完全に持ってこなくて良い場所の話。

ただ、僕の中では、どこかだけ特別にするという意識には無意識が着いて来られない気もしている。これはまだ検証中。

 

雑談を聞いていて、このご時勢でも、友人とご飯に行くことを求めるのかというところで、人の価値って直に会うところにしかないと思うのは不思議よなぁ。いや、直に会うのは中核としても、一緒にご飯を食べないといけないというところが問われるところ。

 

ご飯のついでなのか、会食という時空がないと間が持たないにそれでも会うのか。

おそらく、人と会うという概念の中にそれが組み込まれている。人と会うのであれば、何かをする為でないといけない。

 

このご時勢に教えてもらった感。僕は会いたいと思う人と、何もしなくても会うだけで価値があるから、公園で無言でも全然問題ない。その為に新幹線使ったとしても損はない。要は、当たり前の生活で会えなくなった人に本当に価値があるのかという話。そういうの辞めた方が良いと思うが、その中にしかアイデンティティがない人にはそんなこと言えない。

 

そもそも、なんで同じ時空を過ごすことに価値を置くのだろうな。

僕の中の価値観だとおまけくらいな意味合いでしかないのだが。同じ時空を過ごしても全く分からなかったし。

 

中身より物理は分かるが、そもそも人ってそんなに自分の中身を知ろうとしてないし、良い感じに設定しているよな。良い感じに設定しているから、他人のことも悪い感じにできる。

 

いや、同期の悪い感じを言語化すると姑さんみたいになるのでやらないが、印象論ではない。温い職場だから温くやっている感。

 

僕は印象から外れる情報については開いている。

だって、そうなった方が面白い。悪い感じの人が実は良い人だとかその逆とか。

 

一応、自発的に失恋したので、何の為でもなくただデートしてくれる人か、ヨイガオさんより可愛げがある人好きになろうと思う。どっちもメンタリズムでは無理だな。

 

失恋したのに可愛いってよく分からんな。

 

でも、こういう滅裂さがもともとの自分だった。

やっとこさ。

 

では、おやすみなさい。

 

ストレスなき自分でありますように。