遅くなりました

 

 

 

遊びの概念には空白が付着している。

 

 

 

明日からは最遅番になるので文章タイムがだいぶ遅い。最早番からの土曜日出勤の1日休み後に最遅番とか、生活リズムの切り替えをぶっ壊す悪意を感じるが、2時間半のずれくらいなら1日でなんとかなるか。

 

これは個人的な体感なのだが、思索習慣って生活としての行動にも連動している。日常動作が、それをしようとかしないといけないとかの意志を介在することなく「どういう風にするか」になる。

 

本日は冷凍ご飯の消費のため、朝も昼も自炊。アサガオに挨拶しつつカルピスを購入し、戻ってきて過ぎに朝食に取り掛かる。実家から送られてきた袋麺の焼きそばの消費。前に付いているソースを使って従順に作ったが美味しくなかったため、ソースは捨ててラーメンを作る。麺を茹で、ざるにあげて洗う。スープはごま油でもやしを炒めて水を入れ鶏ガラソース、生姜、にんにくチューブ、醤油、マーラージャン。ついでに水で戻した乾燥わかめも追加し完成。やや薄味だったが、美味しかった。

 

昼は残った冷凍ご飯2回分をレンチンで温め、豚肉、もやし、キャベツをポン酢とコチュジャンで炒めただけの丼(画像取り忘れた)。朝昼どちらも原価100円くらいしかかかっていないのでは。肉体維持としてのご飯は必須だからなるべく安上がりにし、嗜好品に全振りしている感。思索が効いているのは、冷蔵庫の食材と調味料が意識せずとも把握されていることにより、何を組み合わせるかがほぼ無意識にできること。

 

動画と本を眺めつつ洗濯もした。どういう順番で干したら効率的なのかとかも思索的試行対象。今のところYシャツ→インナーのシャツ→Tシャツ→下着でタオルとかズボンとかは手に取った随時という感じ。村上さんがねじ巻き鳥だったかで、アイロンがけの順番を書いていたような気がするが、僕のアイロンの順番は、まぁ良いか。別に干し方もかけ方もルーティンではないし。

 

夕方スーパーに向かい、バターを買った。今回はよつ葉の無塩バター。帰ってきて手を洗った後にそのまま残りのきのこをバターでレンチンし、オリーブオイル、ゆかり、醤油で味を調え副菜の完成。前回はマリネのイメージだが、今回はバター醤油のゆかり風味という感じ。

 

 

考えることがもともとどういうものだったかというと、今やわからないが、まずは概念が自分の中に在ることよな。概念を操作することが考える、の中核。演繹的に論理を積み上げていくという思考法もあるが、これは前提が真理でないといけないから数学とかならともかく人間的思考には不向きな気がする。

 

 

ともあれ。

 

冒頭に戻ってきて、「遊戯(=遊び)」の概念の話。「芸術学」に書かれていて、なるほどなぁと思う。英語と日本語の語用とニュアンスの違いから。英語の「Play」って、何かをすること。ゲームをするとか、テニスをするとか。日本語だと(必要なことを)しないが前面に出てくる。遊んでないでちゃんとしろとか。ただ、日本語にもするという意味の「遊び」もある。「宵顔さん、遊びましょう」とか(こら)。要は、どちらの言語圏でもする/しないの概念があるということ。

 

僕が注目したのは、その後の、隙間を意味する「遊び」。ここには遊びがあると遊び心とか。必要ではないことという意味ではもともとの概念と近いのだが、ここに捉えられているのは、行為ではなく行為の結果としての現実ないし像。

 

遊びでないことはとは義務で、遊びが自発だとすると、遊ぶことができるためには、義務的な要素を踏まえつつ、余白を作らないとといけない。人の容量っておそらく一定で拡げようとしても無理だから、遊び=思索するためには自分の中に居座っている必要を吟味して捨てないといけないのだろうなと連想した。

 

芸術学の行為論と、刑法学の行為論が言っていることを組み合わせるのも面白い。芸術学が言うところでは、人の行為は3種類あって、「本能的」、「他己目的」「自己目的」だとか。ここで前2者については自分がそれをしているとは意識されない。本能的行為はせざるを得ないし、他己目的であれば重要なのは目的であって行為ではない。芸術は自己目的に属するもので、行為自体が問題になるという話。

 

刑法学の行為は、「意思(意志ではない)によってコントロールできる身体的態度」とのこと。芸術学の分類でいうと、全部の行為の一定範囲を含む。どういう発端かはともかく、規範として非難される行為をするかどうかは任意だもんな。思想と行為を分けるのが刑法の立場であり、行為に至らない単なる危険で人を判断しない。

 

ここでずっと考えている、自他の命に重きを置かない人に対して人を殺すことが何故いけないのかに対する説明を想う。殺人罪は人の生命を倫理的に貴いものだとしている訳ではなく、命を法律上保護に値するものだと設定しているため、それを害する行為が犯罪として処罰されるというシステムであって、個々人のモノサシのことなぞ見ていないという論理はどうだろう。素朴に人の命が重いと思う人については特に説明不要の当たり前なことは知っている。

 

現代日本だと、別に他人の命を重視しないことは表に出てこないざっくりした倫理違反だが、処罰されるほどけしからんとはされていない。溺れている人を助けなくても犯罪にはならないし。これが親だったら、保護責任者遺棄致死罪に問われうるが。個人的にざっくり倫理観は好きではない。いや、ふわふわしたまま生きられるのも幸せなことか。

 

もっとそもそも論で考えると、国家の要素が、土地と国民と権力だから、国民の生命という物理的存在を守らないと国家という架空の概念としての存在が崩壊してしまうということなのだろうな。だから自殺関与罪がある。

 

先生が雑談の時に、日本人って平気でニュースの情報を鵜呑みにするが4大公害とかの歴史を加味したらニュースが嘘付いていた例はいくらでもあるのになって言っていたのを思い出した。

 

そもそも論は、「教養の会計学」に出てきたフレーズなのだが、僕も20代の日記のときにそもそも論をよく考えていて、ここで出てくるんかいとなる。そもそも「言葉」とはとか、「心理」とはとか。そもそもを問うことは正解を探ることではない。これが人間的挙動。

 

そういえば、マイミクさんの日記で、オカルトを信じない人が登場してきたのだが、そもそも「オカルト」ってなんだろうな。オカルトを信じない人が宇宙の始まりをどう定義しているのかは気になるところ。

 

オカルトの概念を想像するに、おそらく「現実ではないこと」なのだろうが、そもそも「現実」自体が曖昧模糊としているものだと想う。物理空間って世界を分かり易くするために創造された概念だし。

 

幽霊を見たことがないから信じないということと、宇宙の存在は見てないのに信じられることの違いは、世界的に承認というか保証があるという他己的な世界観だと思うんだよな。

 

僕も幽霊は見たことないが、幽霊を感知できる人が居ても良いと思うし、自責的な世界観だと、時間の流れ方ってある程度コントロールできるのではないかとなっているのだが、表明してしまうとオカルトと捉えかねられないから言わない。

 

僕が言う時間のコントロールはもっと現実的なもので、人は時間を自分の作業時間と社会時間のブレンドで捉えていると思うが、作業時間を凝縮することで、単純に時間は増えるし、いま自分が何をしているかという俯瞰的な意識を持つことで時間の流れが随分と変わってくる。

 

僕の文章を読み続けている人が、時間の流れを意識できるようになるなんてことはあるのか?

 

時間は相対でしかない。

 

 

やれやれ。

 

「熱帯」の話。全然文体は違うのだが、「騎士団長殺し」味を感じる。

 

謎の中核にある「熱帯」という小説は、決して読み終えることができないとのこと。

これって、人そのものではなかろうか。人を読み物に喩えるのが不謹慎だと捉えてしまうのは、本気で書物を読んでない人のものさし。

 

人そのものは情報ではないって言ったところで、そのものは自分も含めて全部把握できるものではないし。原始仏教でもそんなこと言っていたな。

 

宵顔さんについて、僕がこの人そのものを捉えていることは在りえないが、恋文をやめた後の挙動がやたらと可愛すぎる。これってなんなのだろうな。意味不明。現実的に触れることが許されている訳でもないだろうに、いや、ワンチャン(こらこら)。

 

宵顔さんの可愛げは普遍。

 

熱帯で、本に没頭した後、帰ってきて自分が何処に居るのだろうとあやふやになるというフレーズがあったが、現実でもあり得ること。定位置を決めなくても当人は絶対的に個人だし。

 

では。

 

おやすみなさい。

 

 

良い感じの人生を。