精神交換

 

 

 

最遅番の出勤はアサガオとタイミング合わないが、帰りには月と合うだろうから良き。

 

という感じの朝。

 

これでほんとに見られていたら良かったのだが今夜は合わなかった。気配もなさそうだし。今はまだ感じないが、月の気配って捉えられるようになるのではないかと推論する。月の魔力という本を途中まで読んだとき、満月の夜には暴力事件が増えるとかあったし、体を構成する水分に影響を与えているだろうし。湿気が高い日は髪が爆発するとかのかなり分かりにくいバージョン。

 

心のざわつきと月齢って全く相関していないということもないのかもな。

ただ、特定して何か得があるのかという感じもある。いや、内側が要因ではないというのは大事かもしれん。

 

月といえば、宵顔さんのnoteの更新情報があって読んだときのこと。書下ろし部分あまりないのではないかといつ読んだか分からない断片がありつつ、カニのうじゃうじゃの臨場感とか、宮島良いところよなぁとか。

 

最後に、「月が綺麗だ」ということに関する見解が書かれていた。

 

大人になってからそれを発言すると、夏目漱石かとかどういう意味なんだって聞かれるが、言葉以外の意味はないとのこと。たしかに、前者だとコピペ主義なのか知識至上主義だろうし、後者もヨクワカラナイ。情緒的言葉が読めないのか?

 

言葉を言葉通りに遣うというのはとても良きだが、下心(言外の意味)を持たせないように言葉を扱うのはとても難しい。ここで必要なのは素直であることより、吟味してきたかどうかっぽい。

 

しかし、そんなシーンがあったとしたら、夏目漱石知らなくてもきっとどきっとしてしまうなと妄想してしまった次第。そうして、言外に意味がないのだとすると、僕に投げられた言葉の意味が余計に分からなくもなる。

 

個人的な見解としては、言葉には下心がなかったとしても、どうしても言外の意味が含まれるような気はしている。月が綺麗だと言ったということは聞き手が居て、伝達という意味は当然ある。伝達は言葉の意味そのものだとう反論は認めるが、意味と機能は違うのではという指摘。機能は道具の使い道だが、意味の意味ってなんだろうな。個人的には響きとか波及とかそういう捉え方。

 

さておき。

 

人と結末を読む前に紛失してしまう物語の類似性をもう少し説明した方が良いのかなと、昨日の日記を読み返して想う。別れて生活圏から居なくなった人や、物理世界上存在しなくなった人って自分にとってそれ以上情報が更新されない。ここを捉えて結末としても良いのではと思われる。ただ、これは当人の物語の中の登場人物としてのことであって、相手そのものではない。相手そのものの結末は読み手から読み切ることはできない。もっと言えば、自分そのものも、読もうとしても結末までたどり着けないのでは。

 

「熱帯」は謎だらけだというストーリー進行なのだが、そもそも謎は客観的に存在しているものではなく、感知者がそれを謎と認定できないと生まれない。自分がそれを分かっていないと認めること。人に対してこれを引き直すと、分かったつもりになっている限り、謎は生まれない。僕は謎な人に惹かれるのだが、これも人は全員謎なのだから好みの謎に絞っているということになる。

 

謎は解決されるべきものだということでもないから謎に対してストレスはない。

 

物語の結末を読んでしまったら終わってしまうから読めないというフレーズもどこかで見かけたが、結末ってそんなに大事なのかなぁという感じ。そんなことより物語に没頭している渦中とか、文体そのものの方が醍醐味。

 

まぁ、結末を通り過ぎると過去になってしまうというのであれば分からなくもない。でも、過去にしなければ良いだけな気もする。過去になって忘れてしまう(意識に上らない)ような本は当人にとってそれほど大事なものではなかったということなのでは。

 

 

ともあれ。

 

夢の話は省略。あまりに長いことしなさすぎて抱擁の仕方が分からないなとなった。

 

Kindleの話。

 

ハリーポッターはお休みして、休憩時間に一冊読む。スピリチュアルというか、宗教に寄った「祈り」の話。

 

僕は日常的に毎晩祈っているから、専門家が言う祈りってどうなっているのだろうなというのがちょっと気になった。途中に「余白」っていう単語が出てきてちょっと鳥肌。

 

祈りは神様に対する感謝だとのこと。そうすることによって自分が神様と同一化され、「いま」を生きられるようになるとか。自分の気持ちと行動が一致するようにするとか昨日の日記の話だわ。

 

祈りと感謝の類似は分かるが、個人的には神様を媒介にする必然性はないと思った。この本に書かれているのだが、神様とは自分の中に在るとか、タイミングだって言うのであれば、ここに宗教観を抱き合わせる必要もない。たしかにキリストさんとかはとても神様と近かった人なのだろうし、そこを媒介にすることも経過的には良いのかもしれない。

 

世界とタイミングが合うこと(=シンクロニシティ)が神との同一化という見解も面白いし、まずは自分と対話して、本心と捉えるというのも面白いのに、確立した体系がある宗教を持ってきたことによって、キリスト教を信仰している人にしか読めなくなっている。まぁ他に書きようがなかったのだろうが。

 

僕は神様がほんとに在るとしたら、名前が付けられる概念ではないと思う。

人生上で定義ができない何某かの相対みたいなイメージ。神様だと願いを叶えてくれるみたいだし、運命だと決まっているみたいだし、タイミングは一番近そうだが、これも自分で合わせることができるみたいな語義がある。

 

この本で一番面白かったのは、愛の概念。

あんまりきちんと定義はされていなかったが、愛は特別性とは関係ないとのこと。信じる近そうな感じだが、信じるについても何が言いたいのかはよく読めなかった。特別性に根差した愛は外付けだからそこに偏り過ぎてはいけないというのはたしかだと思う。

 

あぁそうそう、これは真理を突いているだろうなと思ったのが、与えると受け取りは1つのことだという話。人は自分が持っているものしか与えられない。

 

これは逆からすれば、持てないものは受け取ったと認識できない。

 

ここで、母親の「母の愛」の概念を想ったのだが、なんか気の毒になったので省略。

 

僕はいちいち宗教上の神様を介さなくても安らいでいるし唯物論で生きている訳でもないから、物的な何かを貰ったりあげたりしただけでは、精神上の交換はないと思っている。

 

精神的に安定している人が観測圏に居るだけで波及するという意味で言えば、僕の文章上の存在はまぁまぁ何か意味はあるのかという気もしてくるところ。別に与えている感覚ではないのだが。

 

知識とか見解もそう。書いたところで無くならないし損はない。

 

スピリチュアルとかの話を読むときに大事なのは、自分にとって良いとこ取りをするのではなく、見解に整合性があるのかというところ。これをすれば良いとか間違いないとか断言するのは編集上の虚構っぽく読めてくる。

 

そもそも人は矛盾だらけの方向性の精神を持ち合わせている。自分に一貫性があると断言できる人は、よほどの聖人か変人か星人か自分をきちんと読んでいないか。断言されたら安心する自己の精神性も疑った方が良いと思うが、その生き方でも否定されない。

 

僕は、こういう意味で、人のこと整合性を持った存在とはしてないが、嘘を付かない限り、整合性はある程度収束する気はする。

 

人の事は知らないから自分の話。

 

宵顔さんとどうなりたいのだろうなという自分の本音がヨクワカラナイ。

やたらと可愛げを感じるのはたしか、現実的に素朴な自分として接してみたいのもたしか。

 

これは結果的にどうなったら満足するのかという話ではない。相手は相手の人生物語を過ごしているから、一致するかどうかはタイミングでしかないという分別はある。抱擁してみたいのも、女体の感触が恋しい訳でもないんだよな。単なる女体であればノーサンキュー。

 

僕は、今まで自分がどうしたいのかというのを封殺して生きてきた。自分の意向より相手の意向の方が重い。ここから離れてやっとこさ1人でどうしたいかは確立できてきたが、誰かとの世界になると調整できる気がしない。

 

宵顔さんの生活日記読んでいても、どうしたってどこかで一致する気はしない。

 

たしかに、僕の人生上、宵顔さんの存在はとても希少。歴代の恋人さんより信じられる。なんでだ?

 

僕は欲しいものは手に入らないという世界観を変えようと思って居るのだが、このままだと宵顔さんも対象になるため、なんとか世界圏から離れたかったのだが、まだ近いところに居るのであれば、抱擁することを目的としてしまいそうです。

 

仕方がない。

 

はい、強制終了。

 

おやすみなさい。

 

良い宇宙を。