ものがたり

 

 

 

夢がご都合主義過ぎてふわふわしてしまった目覚め。ほんと楽しかった。これが完全な妄想に走らないありうる解釈というのがなかなか。ただ、僕にとってほんとうにご都合主義なのは、このまま何事もなく終わることなのだが、本心ではないのかもしれない。

 

もう自分は幸せになっていけないという自己規制からも離脱しつつある。突き抜けて、仕合せは自分の行動指針にも精神評価とも関係ねぇで良いのではとなっているが。

 

外に出ると、いまにも雨が降りそうな重たい空。案の定途中で降り出したが、そんなことより、この暗さならあるいはということの方が気になる。予想通りアサガオがまだちょっと元気だった。しかしながら、気が抜けている感は否めずすっぴんを見てしまったような申し訳を感じつつ、いや、人が気を抜いている姿好きだしなと負けずに挨拶をした。

 

その隣で元気にヘチマの黄色い花が咲いていた。鮮やかな1色も良いと思うが、個人的にはグラデーションというか色がたくさん混ざっている淡さの方が好み。

 

田んぼの稲も順調に育っている。2週間前くらいに網が被せられた。毎年被っているが何対策なのだろう。雀かなと第一印象。どうでも良いが、支柱になっている鉄パイプの上に高さ合わせなのか、缶が乗せてある。いくつか見たところおそらくGokuriで、こだわりを感じるなと思ったら最後にドトールのペットボトルっぽい缶コーヒーがあって、この大きさが高さ合わせにちょうど良いだけかとなった。

 

あと、自然の話題だと、通勤路のある1つの植物にずっと居座っている幼虫が居る。幼虫はいずれ蝶になって、蜜を吸うことで花粉を身体に塗して植物の生殖に寄与すると考えるとwinwinの関係だろうなと思うのだが、蛾はどうのだろう。ハズムシは蛾になるのだよなって。蛾は何を吸うのだ。謎だらけ。

 

これだけ自然が気になるということは、自然不足なのかもしれない。今週末の休みは髪を切りに行く予定なのだが、ついでにどこかの森で森林浴すべきか。気になる=不足とするととんでもないことが連想されるからそういう連動はないとしておきたい。

 

 

さておき。

 

人物像の話。

 

僕は誰かの中に僕らしきことが書かれることは全く問題なく、むしろ興味津々になることが判明した。こういうのって、僕の存在がどういう風に読み取られているかが読み取れるものであって、もっと言えば、誰かの中に僕の存在がどう在るかが示されている。自己観を決めていなければとても楽しい読み物になる。

 

決めていないのだから、異説、高評価、低評価、好き嫌い、なんでも僕そのものではなく、当人の中の僕の像であって、それに対して影響を受けるかどうかは任意でしかない。

 

この辺りの発想が今日の思考の本質でなかなか面白いのですよ(自画自賛)。

 

ちょっと他の本を持ってきて。

 

賢者の習慣の中に、相手が自分から受け取る印象はコントロールできないというフレーズこの本はリブロでこのまえ1さらいしたが、その前にもジュンク堂で立ち読みして気になっていた。これを分析すると、人は人の主観的言動だけを見ている訳ではなく、非言語領域も含めて判断しており、結局その人そのものがまるっと印象として焼き付けられる。

 

これだけだと、どういう評価も自分と繋げないといけないのかとなるが、もう1つ。人の話を聞けない人は、自分の内なる声を聞いていないという「祈り」についての本のフレーズを持ってくる。これって要は、自分を主観で決めつけている人物にとっては、相手も決めつけるしかないということ。

 

繋げると、自分でもコントロールできないし、相手にとってもコントロールできないという二重のオブラートをかけたものが「人物像」ということ。

 

これは自分にとって、誰か特定の人がどういった人物像なのかを省みると分かり易いと思う。この人はこういう人だって言語化することは問題ないが、言語で類型化した印象に囚われがち。ただこれって、当たり前のこと。人間の脳は怠け者だから、括ってまとめって型にはめて思考コストを省エネしたい。なにせ自律神経という人の意識できないシステムも調整しないといけないし、意識ばかりにかまけていられないから。

 

なので、基本的に人をあるがままに観るということはできないのが人間。無意識上の経験則の類型もあるし、意識的な知見としてのイメージもある。こういうことをする人はこういう性格だとかの傾向判断。

何の話なのかというと、結局、人物像は自分にとっても他人にとってもズレがあるという話。だから自己観と他己評価のズレにぷりぷりしてもしょうがない。可能性としてはどちらかが一方的におかしいのか、あるいは両方おかしいのか、どっちともあり得る。

 

僕は自己観がやたらと低かった人物で、僕に時間(分単位、昨日の日記参照)を使わせることがとても申し訳ないと捉えていたのだが、それぞれ何かあるのであればええんかなとなっている。

 

行動経済学で、「タフ・ラブ」という概念を習得した。甘やかすことが愛なのか、それとも放置して見守ることが愛なのかという話。僕は後者の意味で自分を愛しているのだなと思ったのが、病気への対応の例。

 

熱が出た時に症状を抑えるために薬を使うかどうか。僕は解熱剤とか常備薬とか使わない。自分が健康だからという面もあるが、熱とか頭痛は体が何かのバランスを取ろうとしている作用だから、それをあえて抑える対処療法しても意味がないという立場。ただし、歯痛は除く。

 

これは自分がタフなことを知っているから。同じことが近しい人に起こったとき、タフ・ラブを選択するかというと、僕は症状が抑えられる選択肢を選んで甘やかしてしまうだろうなと思う。このご時世のワクチンで言うと、僕は1人だから打たない選択ができた。この判断は情報収集してきちんと自分で決めたもの。ただ、近しい人が心配症だったら自分のモノサシを撤回しても相手の不安を解消するために打つ。個人的には良いものだと思っていなくても。

 

愛も相対性理論なのだろうか、自分に対するものと近しい人に対するものが違う。

 

別に深刻にしているわけでも無く、僕はこういうところを無意識的に枷にしてきた感があるなというだけ。結婚は良いものだってアドバイスを頂いた(?)から、今度タイミングが合った人と社会的パートナーになる世界線もあっても良かろうと気楽に考えている。

 

気楽と爽やかさはよく似ている。昼休憩辺りに、さわやかに生きることは禍根を残さないことだって思ったのだが、自分も他人も重く捉えないことなんだろうな。重さと大事さは連動しているようで、視界を曇らせる。

 

遊びと物語。

 

ブルーバードの本屋さんで買った「芸術学」はほんと掘り出し物だった。

遊びの無目標性。「無目標だからこそ継続されて新しくなる。」

 

僕はこの意味の遊びの概念を現実の人生に適用させているのだろうなと思う。

「遊び」の語源って、故郷から離れて旅をすることらしいし、故郷は拠り所でもないとしている。拠り所を設定しなくても、自分はちゃんと自分で在れるというのが前提で、思考コスト満載だからお勧めはしない。

 

物理学とか数学から持ってくると、人の存在は、時間軸でも空間軸でも常々移動しているから、時空に囚われない変数としての人格を0地点として基準にしたいのだろうが、0としての自分は言語化できる対象ではないと思われる。

 

現実の挙動の方が現実的人格を表しているというのも僕は懐疑的というか、面白い人物はインターネット世界の方が多いというか。

 

挙動が日記的な私、私、私、の人にどうして興味が浮かぼうか。

生活圏とか仕事圏の人は安心圏だから、情報の更新がない方が幸せであると価値観。

 

やれやれ。

 

「熱帯」で、人生を物語として解釈してみるという発想に至る。

 

過去は既に書き込まれているもので未来は白紙の物語であるとなるのが普通の人生だろうな。個人的には、いやいやという感じ。

 

法律学の解釈とは物語の続きを書くことだというフレーズを初学者の時にう読んだのだが、人生上で言うと、解釈は編集と書き込みではないかという感じ。

 

過去は編集できる。何故かって、過去の事実をどう評価するかは今からの任意だから。

そうすると、未来に付いてもある程度は書きこまれているんだよな。過去からの経験則で、未来もこうなるだろうなって。

 

物語を改変するためには、書き換えるという意志が必要になる。経験則とも一般論とも離れれた創造的人生。

 

ここで宵顔さんが出てくる。

宵顔さんの物語上でも僕の物語上でも、人生が交錯することは起りえないと思う。たぶん文学フリマも中止になるのでは。なにせタイミングが合わない。

 

だとして、無理やり物語の筋を書き換えることまでするか、まぁこういう縁だったわなとするのかは、僕に主導権がある。もちろんこの改変は、抱き締めたりまぐわったりできる現実が在ることまでは意味しておらず、それを現実的に提示できる場が存在するかどうかまで。

 

どうなんだろうな。きっちりフラれるのは気持ちいい感じはするが、コントロールできない場を求めている節もなくもない。

 

まぁ、これを発話で説明できる気はしない。

口下手というか、発話は聴覚メディアだから、普通は読めないんだよな。

 

存在がやたら可愛いのは、僕の人生上のバグだと思う。

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

煩いが減りますように。