夢の続きを見たくなくて少し早めに身を起こす。こんな起き方なかなかない。一緒に居たから印象は悪くはなかった。像は豊岡日記から参照したのだろうな。手だと見えていたのはリュックの紐だった。無意識は世界線をものすごく厳密に演算しているのだなという感じ。なにせ趣味が合わない。笑
無意識は日常でもこれくらいシミュレーションしているとなると任意的に生きるってとても難しい。任意的に生きることが正解とも限らないし。ただ、僕はあんまり正解に向けて生きてもいない気がする。それよりも、どこまで自分で在れるかという問題設定。
外は雨の痕跡が漂っている。現在は晴れていて明るかったが、アサガオはまだ元気だった。おはようございます。これって、雨の具合で日照時間がズレたからかなと推測した。ただ、こういう自然の流れで生きているのが植物の時間なのだろうなと想うと、時計時間で生きるほうがズレている感じもしてくる。晴耕雨読は自然だろうが、外の時間の基準を参照しているからあまり変わらない。自分時間で生きるのも難しい。
仕事時間はとても暇だった。眠くなりつつ、左手文字の練習もしつつ、頭の中だけでどれだけ概念を言語化できるかというのを試す。
今日やっていたのは刑法上の因果関係と、会社の存在論。
刑法上の因果関係は現状、事実的因果関係としての条件関係と、法的因果関係としての危険の現実化という2段階で判断される。条件関係については、その行為がなかったら結果が生じなかったかという消去法的判断で、割と範囲が広い。そのために、法的に刑罰に値するかを判断する2段階目がある。
限界事例だろうなという例では、犯人が被害者に執拗に長時間暴行に及んだことにより、被害者が高速道路に逃げだして車に跳ねられて亡くなってしまった事件がある。単なる感情的な悪さで言えば、暴力を振る人はけしからんが、けしからんと言って、被害者が高速道路に逃げ込んで轢かれるようなことまでけしからんに含まれるのかという問題。普通に考えれば逃げ込む先はもっと安全な場所だろうし、危険なところに逃げて他の作用で死んでしまうことまで犯人の責任にして殺人罪にして良いとはならない。犯罪者全員死刑みたいな回路でない限りは。
でもこの裁判では犯人は殺人罪になった。犯人の暴力が被害者が安全なところに逃げるという普通の思考回路でなくなるほど危険性を持ったものだったと評価することで、行為が及ぼす因果関係の枠内だという判断。
刑法の本質が、犯罪者に対する罰ではなく、将来の犯罪者を減らすために言語で意思的行為を縛るということだとすれば、行為で統制できる範囲はどこまでかを決めないといけない。やたらめったら罰すれば、善良な人々はスカっとするかもしれないが、それだったら魔女裁判とかと変わらんよな。
刑法の話は哲学的なところも関わってくるから、法律を勉強していない人でも読めるかもしれないが、会社の話は純粋に法技術的なもので、むしろ宗教に寄ってくる。法人は人でないものを人とみなすことで人が人を創設するという神聖なものだという観念が原初にあるらしい。
美濃部達吉の天皇機関説事件も、日本人の感覚に法人=神聖という観念が無く、俗っぽいものだという印象があったかららしい。
個人的には、株式会社のシステムを言語化するのは楽しかったのだが、省略。
ちょっとぐるぐるしてしまった話。
昨日の日記で僕が打たないと断言したことで、お友達から心配をいただいた。
申し訳ねぇ。だからご時世のこと書かないようにしていたのに、「タフ・ラブ」に引きずられてしまった。
ぶわっと、思考的言語が溢れる。
僕は人の選択にどうこう言う気はないし、心配を申し訳ないと思うのは、心配は当人の範疇の中に在るものだと思っているから。現代人にとりストレスは大敵。僕がストレスの種になり得るなら申し訳ねぇ。
初めに浮かんだ言葉は、「僕が無思慮な人物だと思われているのか?」だった。無根拠に自分の行動について判断しているって? ただ、打つか打たないかを二元化して、自分の信条に反する人物を無思慮とすることはなくもない。「AIは人を憎まない」でも書かれていた。自分の信条に反する人物が良識を持っていると判断することが難しくなっているって。
ここで、僕が参照しているデータと思考過程を全部公開して、なぜそう決めたのかを文章化することが衝動されたのだが、別に納得を求めているわけでもなく、書くことによって精神衛生上よろしくない波及効果がありうることを懸念する。
そう、僕はこの事態における、するかしないかの選択を、医療的効果よりも「安心」に重きを置いている。真面目な話。
これは何処から現象を眺めるのかによる。国家から見れば、統計上の効果として99%抑えられるのであれば成功だろう。でもこれって、1億人で見たら100万人は漏れる訳で(あまりに多くて計算合っているか不安)、個人から見たら自分がその1%に当たるかどうかは運しだい。
でも、1%になるなら効果があるじゃないと安心できる人物だったら僕は最初にしていたし、それで安心が得られる人は問答無用でやった方が良い。安心はストレスを緩和する効果があるし、免疫も高まる。他人に迷惑がかかるからという方向の反論もありうるだろうが、これも確率の話で、肌に付着している保菌状態を解除する効果はないから、したからといって移さないとは限らない。
これが感染率100%でどんな状況でも飛沫を接種したらアウトだったら全然話は変わってくるが。母親が60代は感染数が少なくなっているから効果があると言っていたが、これも同じ状況で観測した訳ではないから、本当にその効果なのかは分からない。した人が健康意識が高い傾向があり、不要不急の外出とか会食を控えているからという理屈もあり得る訳で。
データは省いて色々書いたが、僕はこの事態に対する行動においてどちらが正しいとも言えないという立場。ひっくり返すとどちらも正しい。
お友達の助言も、理屈ではなく感情論として自分が心配だからという正しさとは関係ないところで訴えられた方がぐっとくる。甘やかしのお人好しなので、それだったら流されても良いかなってなるかもしれない。これで僕が最悪の事象としての世界からの退場になっても文句は当然言わない。
結局自責である。
愛ってなんだろうな。
個人的には自分とは反対の選択をする人でも存在自体を受け入れるということになりそう。
どうでも良いから放っておくと現象的には同じだから難しいのだが。信じているからこそ放っておける。
やれやれ。
そういえば、宣いは延長されたが文学フリマはどうなったのだろう。
色々想定して、臨時で次の日有給取ろうと思っていたのだが、悩みが無くなって良かった。
僕は割と考える質だから、起りそうもないことは考えないはず。
関係は統計ではないから、可能性の中でなにを見たいかによる。
何か起こるとしても年単位なのだよな。
その間に交信もないし。
昨日は人生上のバグだと書いたが、この世界観で何もなさそうな人が気になることはないような気もしてくる。
まぁ、でもこれも現実ではないからなのか。
ほんまか?
あきらめの境地。
では。
おやすみなさい。
安心でありますように。