意味世界

 

 

 

見慣れた母屋の居間で祖母に会った。「〇君は非常に困っているのだから」と言われちょっと涙腺に刺激。シーンが変わって、建物の紐を登ると小さな部屋で何某かの展示物。「片目を閉じて見て下さい」。

 

そんな夢。お祖母ちゃんごめんよ。孫は非常に楽しんでいます。何者にもなっていないがそれでかえって自分になれました。祖母はとても優しいのだが、おそらく何か中に想うことがあった。先生と同じように面と向かっては言わない人だった。だから僕はお祖母ちゃんから僕に対する苦言は聞いたことない。

 

人間って、そんなに腹に一物を持っているものだろうか。僕はなんというか手持ちのカードは全部表に向けて晒したいところがある。だからこそこれくらいの文字が綴れるのだが、もしかしたら人って伏せカードをいっぱい持っていて、もっといっぱい在るのではなかろうかとちょっと想像。それはナニカに触発されることで表になるからコントロールできないだけ。僕はそれを自発で表にひっくり返しているだけのでは。

 

ババ抜きならば全負けだが、人生だとこれでどうなるかは分からんな。

 

さておき。

 

へちまの花も夜には咲いていないから、どうやらアサガオと同じ開花帯なのかもしれない。より元気なのは日陰だからだなと本日発見した。眺めているだけでも何か見つかるものだ。

 

仕事時間は一瞬で過ぎた。時間を早く過ごさせるためには、時間を意識しないことが肝要。本日はちょっと楽しみな事を作ってウキウキしていたから、時間をカウントするどころではなかった。1つは高邁な思考もしたが。

 

森への衝動が海へ流れ、だったらどっちもできるところに行けばいいじゃんと、明日の予定を即断した。若干宣言が頭をよぎったが、人に会うでもイベントに行く訳でもなく海を見て森を歩いて帰るだけのことのリスクはいかほどかと、衝動が勝る。電車よりむしろ高速バスの方がええかもなと楽天トラベルでぽちっと予約。温泉に入る予定はないが温泉地行き。

 

ここからの動きが我ながらアクティブ。まず昼休憩中に、旅のお供にするための本を探しにブックオフに向かう。個人的に1遠出1冊を往復で読み終えるという決め事があり、日常で読んでいる本とは別にする。探すと言っても決まっていて漫画のタイトルで見かけた「僕はコーヒーが飲めない」から連想された、山田詠美の「僕は勉強ができない」。この本は高校3年から大学1回のどこかで借りて読んだ本で、我が家には物理的にないが、頭の中には在る本。ストーリーもあまり出てこないが、たしか勉強ができることより女の子にモテる方が良いことじゃんって思っている主人公が先生とうんたらかんたらになる話だったような。若干読んだ時期も被っている「おいしいコーヒー」と混じっている。

 

まぁ本はいつものことだから良いのだが、何を思ったのか、「海を眺めながらビールを飲みながら弁当食べるか」と衝動し、休日でも弁当を作ることになる。しかも、「遠足のお弁当といえば卵焼きと唐揚げだろう」って、平日より力を入れて作ってしまった。卵焼きは美味しそうに見えるように作ることがずっと苦手なのだが、味はなかなか。お弁当用に甘めにした。母親の味と近め。唐揚げ作るのも久々。オリーブオイルしかなくて揚げ油が割高になってしまったが、味はマジで美味い。ヘルシー。

 

生活上の処理を減らすために洗濯もしながら。

エネルギーというか、機動力がすげぇなとなるのだが、仕事と遊びを分けないようにするとこういうのが自然なのかもしれない。もっと色々できるだろうな。

 

明日の日記は海と森になる予定。乞うご期待。笑

 

ミクシイをパソコンから見る利点ってほとんどないと思うが、パソコンから見ると日記の閲覧数が表示される。自分が読み返した分もカウントされるのが難点だとは思うが、アプリでは見えない。

 

やれやれ。

 

うきうきの合間に考えていたのは、「人は何処で生きることになるのか」というテーマ。

 

世界には様々な場所がある。物理世界、インターネット世界、精神世界、諸々。

 

物理世界は言わずもがな、物理法則によって構築された現象界。人はここで生きていると考えるのが一番省エネだが、物理法則も完全に解明されていない模様。たしかに、見て聞けて触れる世界だけを捉えて、他人とは物理的存在だとするのはまっとうな考え方。ほんまか?

 

精神世界は情緒とか思考とか意識とか、かなり個別的な場所。その人しか存在しない。心理学とか脳科学はどうなのだというと、人の精神や意識の作用を見えるようにする試みだから、物理世界に入っている。精神世界はそもそも独立国家で鎖国しているから、共有とか同情とかは起りえない。

 

インターネット世界は、物理と精神のブレンドみたいなところで、匿名性によって精神が開陳できているようにみなせるとか、言語が操作できるものだからある意味「手抜き」できるとか、特色がある。変にトランスできるというのもあるかも。特に攻撃的意味合いにおいて。

 

どの世界にも生きていると言える。人は環境に合わせらる生物だし、世界を決められる存在でもあるし。僕はどうなのだろうなと考えたとき、インターネット世界に主に生息していると言えなくもないが、別に匿名性の笠があるから全開陳している訳でもなく。

 

統合する世界として、人は「意味の世界に生きている」という試論が浮かんだ。

 

言語化には馴染まないのだが、意味は世界を構成する要素というのが1つ。意味を捉えられないと世界に成らないのは、ごくごく普通のことだと思う。意味が分からないことは当人の世界から排除される。

 

ここで目的とか効果とかになると、これは意味というよりは意義になる。意義は何らかの有用性を問題としているが、意味はそういうことではなく、世界そのもの。

 

構成要素でもあるし、エネルギーでもあるし、世界を捉える道具でもありうる。

音楽とか絵画とか舞踊も意味の世界に存在している。この世界に限り、人は他人と交流できるのではという感じがあるのだが、あんまりまだ分かっていない。

 

意味と言葉は親和性がある。

 

 

ともあれ。

 

昨日の日記でお友達への気持ちを言語化したことによるのかなんなのか、宵顔さんへの気持ちも眺めてまた少し分かったことがある。

 

たしかに、僕は宵顔さんのことが現実的な意味で好きなのだが、この好きはパートナーになりたいにも連動しているに違いないとしていたことは気持ちとして誤りなのではないかとなった。

 

僕は思わせ振りで人の気持ちをコントールするのはやめたから、カードは全開示で良い。

 

今回の日記の更新を読んでいるときに、文体も好きだし、生活圏の登場人物になることを焦がれていたはずなのに、浮かんできた言葉が、「この日記の登場人物になりたくないな」だった。一番近いはずの同居人でも駄目なのかも。

 

文章に登場されるって、基本的に嬉しいことだと思われる。

僕の文章に出てきて悪い気分がする人は、まぁ居るのかもしれない。この前の文体の人は申し訳ないってなんだか委縮してしまったのか、日記検索で現れなくなってしまった。別にあの文章も当人を否定するものではなかったはずなのだが。

 

僕が関係を断捨離しているのは、下手に人と関わるとその人の存在が意識化できる次元で残ってしまうから。岡山に行ったときにすれ違ったマダム2人組すら残っているし、スーパーの店員さんとかも然り、高校時代の後輩とか、癖が強かった人(男)達も当然。

 

これは、別に僕の記憶力が豊かな訳ではなく、てきとーに人と関わることができないという質だからというだけ。これを発見するまでは、敏感な人なのかと思っていたが、人の機微が見えてしまうだけということになって安心。

 

僕自体は別に敏感でも過敏でもない。

ただの遊び人。ただ、人のことはどういう文脈でも否定しない存在でありたい。

(同期はやたらと目についてしまうが、もしかしたら何か当人に良いことがあったのかもしれない)

 

なるほど、だから1回だけ抱擁したいという衝動になっているのか。

宵顔さんの意味の世界における存在を好いているから、物理世界とは関係ない。

 

ではこの辺りで。

 

おやすみなさい。

 

良い秋を過ごせますように。