日帰り記

 

不急ではあるが不要ではない無目的な旅。

 

寝る前には雨が降っていて、受け入れようと思いながら寝る。雨と海の取り合わせは綺麗だろうし。お弁当が困りそうだが何とでもなるだろう、、、寝。起きたら晴れていた。お弁当用のご飯を詰め、残りご飯を梅干しと余った副菜でいただく。ルーティンが仕事日のよう。誰にも会う予定はないため髪は整えずに出発。

 

高速バスは、僕を含めて5人だった。他は学生っぽいカップル2組。静かに過ごせるカップルというのは微笑ましいな。指定された席に座って外を眺めると雨の日のようだった。おそらく窓に貼った日光避けのフィルムが撓んでいる。晴れの日なのに雨の車窓も見られるとは幸運だ。リクライニングを全部倒せば晴れの日の景色も見られる。

 

往復できっちり読み終わった「僕は勉強ができない」。こんなにあっさりした物語だったか。1回目は随分と時間がかかったし、主人公に何か面白みを感じたのだが、なんというか、たしかに独特な人格ではあるが、基準は同じよなという感じ。過去を痛みが伴う懐かしさとともに読まなくなったからかもしれない。意味の世界では時間は一直線に動いていない。

 

車窓が好きだ。日常で移動手段として自分の体しか使っていないため新鮮であるというか、移動を直接感じられるというか。遠くの森を眺めていると視力が回復されている気がする。森にかかる陰とか雲の近さ、淡色。初めて目にしたときよりも素朴に美を見られるようになってきている。これは余白が増えたからだろうか。

 

意味と色の関係。森は一言で表わせば緑だが、よくよく見れば当然幹の茶色や葉の黄・橙、青など、相対的に見れば淡い。僕は授業の絵でこういう風に森を塗りたかったのだが表現する技術が無かった。あと花の色。彼岸花はまだぼちぼちだが遠くからでも良く目立つ朱色、朱色よりも赤度が強いのか。百日紅の花のピンクと赤の中間味。鮮やかだとしても原色は無いのだよな。

 

色のニュアンスはまさに意味の世界の拡張で、色を識ることで世界にその色が塗られていくというイメージ。あぁ、そういえば出かけるとき、ふとメモ帳を持って行こうかと思ったのだった。頭の中のメモ帳書きつくれば良いか、旅の荷物はなるべく少なく。ということで結局持って行かなかったが。

 

車窓から景色を眺めるうちに取り留めなく流れていく雲のような言葉は、特に役に立たないものだが、こういうふと想起される言葉の方が目的をもって遣われる言葉よりも愛すべきものだと思う。基本的に誰も聞いちゃくれないし当人もすぐ忘れてしまうものだが、意味の世界においてはそういう言葉が世界観そのものを示している。

 

ちょっとここで宵顔さんについて。

 

現実的には全く関わりない人なのだが、とても気になる人(ばればれだが)。昨日の「この人の日記の登場人物として書かれたくない」という発想を雲と一緒に空に浮かべて漂わせていた。何か続きがあるのかもしれない。

 

ふと思ったのが、生活圏に居る人達が、人と人で繋がっているのではなくて他のものを介して繋がっている場だからかとか。例えば音楽とか。まぁこれもありうる。僕は他のものを媒介にしなくても繋がっていられる人が良い。こんなこと言っているからこの状況だが、僕は自分でそれを選んでいる。いや宵顔さんも選んでいるだろうよ。

 

もっと眺めていて思い付いたのが、いや、でもブログの登場人物として書かれていたらきっと嬉しいな。さらに小説に僕らしき人が出てきたら小躍りするかも(誇張表現)。

 

となったとき、日記(生活・今)→ブログ(過去)→小説(虚構)という分類すれば、順に純粋な意味の世界に寄っていく。今を通り越して過去になりたいなという衝動。これは僕が読み取っているところの宵顔さんの言葉の世界において大事にしている順番とも言える。

 

そんなことを考えていると、バスを降りた先に居る妄想が浮かび、そうなったら、「ようこそ僕の世界へ。」って言うだろうなという突拍子もない妄言が浮かぶ。凄く楽しいだろうな。

 

あぁ、到着。

 

とりあえず城崎温泉駅には用がないため駅に向かう。とはいえ40分ほど時間があったためまずはコンビニに行って地ビールを飲もうと試みる。しかしながらそう都合良くはいかず、お目当てのビールはなかった。仕方なしに初めて見かけた岩手の地ビールを買ったが思いの外美味しかった(写真1)。

 

川を眺めながらビールを飲む。地元の近くも盆地に川が流れているためなんとなく親和性。なんだかんだ電車に乗り、竹野に到着。釣りに来たらしき学生風男2人組とおそらく海に行くだろう同2人組に気分を台無しにされる。滅せよ。

 

僕はだいたいのことに寛容というかだいたいのことがどうでも良いのだが、道を塞ぐことはけしからん。釣り人2人組は後ろに僕が居ることに気付いたのに偏ることをしなかったし、もっとひどいのはもう1組。入口(出口)を塞ぐように案内図を眺めるなよ。無思慮とかそういうレベルではなく、世界には他人も居るんやぞという抽象的な倫理でもなく、現に、具体的な、人が、後ろに、判断が、ふぅ。

 

海に着いた。思ったよりこじんまりした海岸だったが、色が綺麗な海。青が好きだ。人も全盛期からすればぱらぱらだろうが主観的にはたくさん居た。ちょうどいいベンチに座って撮ったらちょうど無人の浜のような画が撮れた(写真2)。

 

ここで愛すべき隣のベンチに座っていたおじさんとの心(意味)の交流の話をしたい。10メートルほど離れたベンチにおじさんが1人で座っていて、楽しそうに海を眺めていた。僕はお弁当をひろげ(写真3)、ビールを飲みながら食べる。落ち着いてきて、そろそろ一服したいなと思う。しかしちょうどmixiで喫煙者の話題が盛り上がっていたこともあり、スモーカーディスタンスとしては微妙な距離だよなと、様子を伺う。

 

そうしているとおじさんの方も様子を伺っている模様。満を持して携帯灰皿を取り出し吸い始めると、おじさんも美味しそうに吸いだした。もちろんおじさんも携帯灰皿持参。なんだか楽しい。

 

僕はこの話題に対しては、極論多いなという立場だが、喫煙者はもう少し遠慮せんとなとは思っている。イメージ悪くしているのは喫煙者の方だし。現に座っていたベンチから見まわすと吸い殻落ちているし。マナーが悪い層と喫煙者の層が被っていると、喫煙者に対する評価になる。人は分かり易いところに意味を置くから。

 

嗜好品をたしなむのはたしかに人権の一種だが、人権はなんでもわがままを通せる無敵の武器ではなく、他の人権と常に調整が必要なもの。

 

嫌煙家で凄い吹き上がっている人に対しては、何か自分が閉じ込めてきた鬱屈があるんですかとも思うが。人が怒るのは割と自分に向いているから。僕の道を塞ぐっていうのも自分の過去の世界が狭かった頃に怒っている節があるし。

 

海が終わり、森に至る。

 

竹野から城崎温泉への1駅を歩こうかという目論見だったのだが、道を間違えてさんざんなことになった。2,3キロ間違えて進んで、下調べした地図っぽい道ではないなと思って現在地を調べたら全然違う場所に居た。車の通りが多くて人が歩いて良い道なのかと思って怖じ気付いてスルーした道が正解ルートだった。時間も時間でどうしようか、疲労も鑑みねばと引き返しながら検討する。いや、でも帰りの特急まで2時間くらいはある、行けるか、行くか、行くぞ。

 

この誤ルートで良かったことは、ハズムシが居たこと。かなりグロテスクな虫だから見たい存在ではないのだが、地元でないところでも居るのだと発見できたのがなかなか。あと、川の水がとても澄んでいた。色がついてないの。

 

で、峠を登る。鋳物師戻峠という名らしい。入って見ると道は広くてそんなに危険は感じない。車にはいっぱいすれ違ったが、人とは全くすれ違わなかった。調べると標高246メートルだとか。マスクは不要。タオルを首にかけずんずん歩く。頂上に、あるんだろうなと思っていたら、案の定トンネル。徒歩で抜けるとかなかなかない。空気が悪いからタオルで口を覆って歩く。夕暮れ時のトンネル、こえぇ。車が通ると音が大反響して怖いし、自分の足音も反響する。

 

ではこの反響を利用してみるかと歌ってみた。「さよならとーいいっしょーにー、おしえてほーしかったよー、あのやくそくのやぶりかたを」。響く響く。気分が良くなる。峠を下るときもちょくちょく歌っていた。下っている最中ぼーっと考え事しながら下を向いて歩いていたら、黒い蛇が目の前にいて飛びのいた。自然を相手にするときぼーっとしていてはよろしくない。自然は綺麗なだけではない。びっくりさせて申し訳なかった。

 

やっとこさ、人が歩くような場所に着く。志賀直哉の物語に出てきた桑の木だと。僕がここに来たかったのは志賀直哉のファンだからではないから特に響かなかったが。温泉街に辿りついて、やっと一息。

 

浴衣姿は艶やかだ。今はマスクで半分顔も隠れているから艶やかさだけ浮いている。実際に乱したら艶やかどころではないのだが。

 

「僕は勉強ができない」で、まぐあうことを「寝る」と表現しているのだが、たしか村上さんもこの表現だった。寝る、同衾もそうだがオブラートに包んだ慎ましい表現。僕の中では「食べる」の方が近い気がする。でも食べる表現だと、一方的に捕食した感があり下品なのか。斬るだとなんだろう、致命的なものを握ったという感じなのだろうか。

 

でも、寝るついでにするのだったら、結局不純な感じもする。

別に朝でも昼でもあることだし。

 

いまとなってはそれほど重要なカードではないのではとなる。

たしかに、親密性はあるのだがその親密性はまぐあい劇場限りみたいなところ。

 

これは生活劇場でも適用されるのか。

 

 

帰り道。高校生(大学生かもしれない)くらいの部活の集団が乗ってきて、ふと見たら、斜め前の席の女の子が自分達3人組の画像を加工している作業を見てしまって、なんだかいたたまれない気持ちになった。プライバシーは守れると思う。

 

「僕は勉強ができない」でも、女性が舞台裏で自分を磨く姿が書かれている。作り込まれた美少女は、自分がそういう風に見られることを知っているから、そういう風に見えるように振る舞うし、影で努力もしているし、嫉妬もされないようにしないといけないみたいな。

 

自然体に見える人ほど作っている。モテるのも大変なんだなぁ。

僕はこういう奴だから、あんまり自然体を意識したことがなかった。なんなら、昨日よりも今日の方が自然体だわ。

 

そうして今に至る。

 

人間の体というのは凄いな。疲労度で即寝してしかるべきの移動距離なのに、意識の方が優位になる。誰かと一緒に旅していたらきっと気疲れでぐっすり寝ている頃だろうが。

 

峠を汗だくで歩いているとき高校のマラソン大会を思いだしていた。

自己観では体力遣い切ったつもりだったのに、走り終わったときにまだ余力がある。筋繊維がぶちぶちになって再起不能みたいに使い切るという意味ではなく、そんなに疲れていないなという感じ。

 

もちろん筋肉痛にはなるだろうが、人は自分の肉体のことすらあんまり分からずに一生を終えるのかもな。

 

体といえば、文体。

 

「貴方の日記は、読ませます」というフレーズを何日か前に頂いたのだが、これって文章的存在としてはかなり高評価。いや、文意としては読ませる日記なのか、自分に読ませるようにするのかは分からないところはあるが。

 

ここで想ったのは、宵顔さんが僕の文章を読み続けているのは、ただ読んで面白いだけで、そこに他意はないのではないということ。これはこれで良いのだが、だとすれば、僕が居座る理由もないなって。

 

5000文字越えにいくかと思ったがここまで。(眠い)

 

とても移動した1日でした。

 

おやすみなさい。

 

良い体を。