本日は早めに

 

 

起き抜けの体が動くのを拒否している感が凄かった。一息の睡眠時間もやや長かったし。朝ごはんは雑炊を作った。食材は人参の切れ端とキャベツと卵。味付けは顆粒かつおだし、塩、生姜とシンプルだが、とても美味しい。

 

ぼーっとトルネコ3の動画を眺めたり、髪を切りに行ったり、洗濯したりしていてあまり日中に本を読む時間がなかった。何かまだ日中に文字を追うことに抵抗感がある。本を読むより実地の方が大事だろうという観念が蔓延っているのだろうか。お風呂時間に組み込むことによって生活化させているし、平日ならkindleも読んでいるが、これあくまで「空き時間」というカテゴリー。もはや趣味ではないから、なにかもう1つ施行しないといけない気がする。

 

当人にとっては、現実的体験と同じくらい濃いのだし。

 

本日髪を切ってくれたのは店長さんだったため、話しはあまり弾まなかった。ある漫画の謎が気になるのだと言っていたが、僕はそれを少ししか読んでおらず、観測域がややズレているらしい。それに僕は終わってない物語の謎が気になることはあまりなく、むしろ終わった物語の謎を考える方が好ましいのかもしれない。漫画界隈はシビアっぽいから、思ったように終わらせられなかったという物語はたくさんあるだろうし、壮大過ぎて作者さんの寿命が尽きてしまうとか。この点で言うと、暗殺教室で有名になった松井さんの、前作はとても良くできているなぁって想う。別作者だが「バクマン」もそんな感じ。

 

漫画といえば、「銀の匙」も好き。3周くらいしている。この作者さんの農家エッセイみたいな漫画も面白かった。「ゴールデンカムイ」は途中まで。想えば漫画も活字メディアと同じくらい、むしろもっと多いくらい読んでいる。

 

僕の好みは入り込んだ物語で、典型的なのが藤田さんだと思われる。「うしおととら」って遠野物語通してから読んだらまた味わいが変わるかもしれない。あと、「ベルセルク」も凄いところに入り込んだ物語だったよな。「幽遊白書」の魔界編とハンターハンターのキメラアント編って結構似ている。

 

僕は「熱帯」の「まだ終わっていない物語を人生と呼ぶのだ」というフレーズは個人においては真理だと捉えている。要は、「シンクロニシティ」と共に生きること。もちろんこういうのは、物理的な現実生活は前提になる。肉体が滅んだら人生を意識できなくなるのと同じように。

原始仏教の話なのだが、悟った人って無感覚みたいで人生面白くなくなるのではないかと思っていたら、尊師の回答があった。「死を望まず、生を望まず、死を悲しまず、生を悲しまず。」根本的な苦は前提として、与えられた生を全うして遊ぶって楽しいよな。運も凄いことになっている感。

 

これも、シンクロニシティなのだが、「僕は勉強ができない」に、自分で世界から退場してしまった同級生が登場する。人間が25時間周期で生きていて、時計時間とのずれを調整しながら生きているということを「僕は人より考えることが多いんだ。」という同級生。

 

主人公は、ここで「考えること」を考えて、それを意識したら人間は生きられなくなるのではと恐怖する。歩くことを意識したら右足と左手を同時に出すことができなくなるのとなぞらえて。たしかに、僕も集団行進の練習をしているときにこんがらがることがあった。これは発話でも言える。むかーし、小学生の頃に何かの節に自分のことを君付けで発話してしまい爆笑された記録。人って他人の齟齬を馬鹿にする。

 

たしかに、考えることを考えだすと、ものすごく孤独を感じることになる。何とも繋がっていない自分の存在を捉えてしまうため。ただ、個人的にはこれが自分自身の人生劇場の始まりだと思っているという節もある。

 

歩くことって確かに無意識が学習して勝手にできることだが、それができるようになるには意識的な施行(志向)があったはず。誰かが歩いている姿を見て、意識的に足を動かさないとできるようにならない。歩行は分かりにくいから、竹馬とかホッピングとか一輪車(古いな)、現代なら自転車、自動車でも良い。

 

訓練によって習得した当たり前をあえてできるようになってから意識する。これにより分かることは自分の範囲であって、常に意識していれば意識的に歩くこともできるようになる。ただ、これも何とも繋がっていない個体としての自分が見出されてしまうというデメリットはある。寂しい人はきっと寂しさが増す。

 

ここで考えることを考えるに戻る。

考えるは肉体の修練で獲得するものではないから、考えることがどういうことであるかという一般的な共通項はそもそもない。周りが考えるとしていることから類推して観念を獲得することになる。これも無意識の学習領域で、悩みと考えるが一緒たになっている人しか周りに居なければ、考えることは思い悩むスパイラルで宜しくないという評価が下される。

 

僕も自分が考えていることを開示すると、頭でっかちだ、そこまで考えなくて良い、優柔不断とか、負のレッテルを貼られまくった周りの環境。だから硯は考えることを止めた。

 

1人でもきちんと聞いてくれる人が在れば随分変わっていたのだろうなと思うが、別にそれは良い。まずは自分が否定せず読むようになっているし。こういう意味でも宵顔さんはとても希少だと思われる。

 

そうそう、「考えること」を考えるというのは、自分が考えているのはどういうことなのかを俯瞰すること。悩むことなのか、選択のために情報収集して重みを付けるのか、何かを否定する為なのか信じる為なのか。

 

合理的(目的に適った行為を選択すること)な思考を至高とするなら、統計学とか読んだ方が良いと思うが、一般の人が合理的だとしているのって、自分がいま持っている情報の中での選択が正しいと信じることができる根拠集めだと思われる。

 

後ろ向きで考えるのはつまらない。

僕の「考える」は、無軌道なところはあるが、今のところ自分にとって得があるかどうかではなく、自分が自分で在ることをおさらいするような感じ。まぁ、開示できる存在が今までなかったのはしょうがない。重みが全然違う。

 

物事を見通すことによって、分かり切った未来を予測して不測の事態も受け入れる準備ができる。これは自分の外付けのバイアスをぶっ壊していく作業でもあり、よほどアイデンティティを確立しているか、アイデンティティをどうでも良いとしている人しかできない。

 

なんだか原始仏教感があるが、僕は割と煩悩も受け入れていてきている。

この人と肉体を重ねたいという欲求は、一般的な色欲とも違うし。」

 

まぁこの話は良い。個人的には面白い動きなのだが。

 

個人的にどこか近い人だと思っている人が、色弱だと言っていて、色覚の本を読み返した。僕は色の観念を、触り心地みたいな主観的な具合でしかないとしている。ただ、主観的な所に留まらない部分もあって、社会的にカテゴライズされる、危険、安全の色を識別できるかというところ。典型的なのが信号とか非常口とか。

 

赤と辛さとか、緑と葉っぱとか、それを言葉として共通項にできるかの話であって、僕は別にそんな話をしたい訳ではない。淡さを伝えるって、たしかに昨日の日記のように叙述すればちゃんと読んでくれる人には伝わるが、僕がイメージしている淡さと、読み手がイメージしている淡さは全然違う。もちろん全然違うことが当たり前で、それが良い。

 

錯視って、人間の眼には普通にあることで自分の視力から採り入れた情報が正しい訳でもない。矢印の長さの錯視とか。線は同じ長さなのに、外向きなのか内向きなのかで長さが変わって見える。

 

この錯視と、刑法でいう錯誤論にとても親和性を見出して、人生は物語として作り込まれているのではと疑う。刑法は故意に他人の法益(法律が保護すべきだとした人間の価値)を害した行為を当罰性が重いとしていて、これは一般用語で言う「わざと」。

 

「わざと」を言語化すると、「分かっていてあえて」になり、この「分かって」はこれをしたら人を殺すことになるという事実の認識なのだが、この認識も一般社会生活において、これをしたらこうなるという変な話、物語上の因果律みたいなところがある。

 

認識を言語化するって、言語化の訓練をしていない限りなかなか大変なことなのだが、行動とか振る舞いによってこういう認識をしていただろうとされる。というかそうするしかない。そもそも自分が動いているときにこう認識しているって意識的に説明できる人っておらんやとという感じなのだが、社会生活においては物理的ふるまいから逆算されてしかるべきというのが現在の水準なのだろうな。

 

錯誤は、熊と間違えて人を猟銃で撃ち殺してしまったとき、一般人も認識を間違えてしかるべきだったら、犯罪には問えないという感じ。他人事だったら、熊と間違えたとしても人を撃ち殺すことは罪だとしても良いのだろうが、現代社会は、人は人を裁けないという共通理解がある。だから法で裁くようにした良識。

 

でも、日常生活では良く人を裁いている人がいるよな。

変なの。

 

ここまで。

 

僕の人生物語はまだまだ展開がありそうで楽しみ。

 

では。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。