トンネルの夢。現実では徒歩で通り過ぎたが、原付で峠を登って辿りついたときに嫌な予感がして引き返した。異形の何かというより抜けた先に見えた像が真っ白だったから。黒だったら行ったかもしれない。
月曜から汗だく。財布を仕事用のカバンに入れたつもりで出かけ、しばらくするとあれ、財布どうしたっけとなり探るがない。ぎりぎりリカバリーできる時間帯だったからいったん帰る。もうちょっと早く気付かないとなってのほほん速足。しかし部屋にもない。カバンも弁当が入っているからひっくり返せないし。結局、カバンのいつと違う薄っぺらなスペースに入っていた。なんじゃそら。その頃には時間が本気でギリギリで筋肉痛でもお構いなしで通勤路を走り抜けた。
間に合ったのは良かったが、汗が止まらない。トイレが顔を洗ったがあまり効果がなく、ハンドタオルもマスクもびしょびしょ。マスクは替えて、空調が効いた部屋で汗が引いて乾くのを30分程我慢した。
いやはや、人災。休み明けには財布への意識が抜けている。あんま浮かれるなよという体からの窘めなのかと解釈したが、いや、文学フリマ楽しみにはしているが、それは現実的には何も起こらないという前提ありきだろうよ。いやいや、会話くらいは起るか。
私信で「生活を壊すつもりはありません」と送ったのだが、僕としては意志としてのニュアンスだが、読みようによっては可能のニュアンスもあって、後者だとしたら傲慢なフレーズよな。壊そうとすれば壊せそう(可能性)だがしないみたいに。このフレーズだけであれば、どちらで読んでも正解だろうし。
ともあれ。
たしかに人災で悲惨だったがあまり堪えなかった。でも、浮いたときに沈むようなことが起こるって、運で見れば、人生の運の総量は一定で良いこともあれば悪いこともあるということになるが、ちょっと違う解釈もできる。
これもホメオスタシスの作用なのではという説。無意識が出来事に恒常性を保つように調整するから、良いことと悪いことが偏って起こらない。まぁこれで悪いことばかりが偏るのも、そういう状態を維持するというホメオスタシスが働いているのかもしれない。とすれば、良いことばかりが偏るというホメオスタシスも当然あり得る。
ところで、色の話。
色弱(今はそういう風な呼称ではなかった気がするが)の人が見る色のコメントをいただいた。僕はおそらく色覚については正常値で、たぶん視覚としては人が見える色はきちんと識別できている。
ただ、視覚がきちんと見ていたとしても、世界の色をどう捉えているかという意識は別だ。見えていたとしても見ようとしなければ見えるようにはならない。というのも、僕の世界に彩りが付いたのは、ほんとつい数年単位の話。それまで夢に色が付いていなかった。
見えるのだから意識する必要もないということだったのだろうが、そんな見方だと意味の世界に持って帰って来られない。前の日記で味覚と似ていると書いた。たしかにどんな味がするかとどういう色として見えているのかは主観領域。ただ、色は言葉というか語彙にも近い。自分の語彙を習得することと、色の淡さを言語化=意識化することはとても近い。もともとパレットがあるからできることと言えばそれまでだが、色は概念だと思う。ヘレンケラーが「水」の概念を習得したエピソードを思い出した。
単なる草花に名前が付くと意識化されるのとも近そう。そういえばへちまの花は観測していると夜だけ閉じている模様。○○ガオではなく、芙蓉と同じような開花帯だった。
書いてなかったが、土曜日の夜の温泉街で浴衣と眺めて後、空を見上げると月が在った。カタチを見るにつけ、先週の遅番のときは見えなかったんだろうな。月の色はなにいろか。黄色とか白とか当てられるけれど、結局はそのときの今みた月そのものの色。
味覚は完全な主観であって、言葉で伝えられるものではない。口移しでビールを飲んだとしても同じ味ではないし(甘くなる、こら)、共通項は味ではなく食べた物体が同じかどうか。色についてもそういう風に扱っている人が多いように見受けられるが。
まぁ、言葉についてもそういう風に扱っている人は多い。誰がどう使っても同じ意味になるのが言葉という青は赤に見えるはずがないという感じ。
どうでも良いが、本日雑談を聞いていたら、「お隠れになる」は造語だという認識。漫画で見かけて、この言葉が分かればその漫画を知っているということなのですねって話していたが、この単語って普通に古語からの由緒正しい日本語よな。由来を想像すると天岩戸に天照大御神が引きこもったところなのかなって。あんまり言葉の認識を訂正することはしたくないし、指摘はしなかった。
僕も会話マナーとしての定型文は全然知らないし。誰が使っても同じ色の言葉は知ったところで世界が拡がらないし。ミクシィで言えば、「足跡ありがとうございます」みたいな言葉。
なんだっけ。
あぁ、本日は仕事中、何も考えないことを施行してみていた。歩くことと思考することが同じであるならば、するかしないかをコントロールできるようになってこそ。取り留めもない発想が浮かんで現実がままならないということももはやないのだが、考えることを考えるの効用ではあると思われる。
止められないのは、自分が自分で考えていないからかも。
他人の心中なぞ考えても仕方がない。いや、考えることは大事だが、正解があると思ってはいけない、か。
読書時間。
行動経済学に、好みとは効用だというフレーズがあって、ほんまか? となる。
効用があるかどうかは合理的判断だが、好みかどうかは感じでしかないような。ここを混同させるから、主観的にこんがらがるのでは。効用の解釈次第ではあるのだが、何もないのに惹かれるという現象は捉えられない。経済学だから何も回らない人の部分は研究対象外なのだが、普通にこの感覚で生きている人が多い印象。
僕はそういうの知ったこっちゃないが。
民法の思想背景。刑法の背景は、割と分かりやすい。一言にすると法が人を裁ける範囲はどこまでかを探求する学問。民法は分かりにくい。おそらく社会的な効用が偏らないことを志向しているなのだろうなという感じ。夫婦とか相続とかはまた別の、法による家族関係の承認みたいなこともあり、人間社会という感じ。
もう1つ。
「熱帯」って、村上さんのオマージュ味が凄くする。森見さんが村上チルドレンと呼ばれる層に入っているのかは知らないが、「海辺のカフカ」とか「ねじまき鳥クロニクル」あじが凄くするのだよな。
こうやって、シンクロニシティとして勝手に繋げるのが人生劇場。
宵顔さんは、全くそういうものがない。
繋がってないのになんで僕の人生劇場から離れないのだという不思議。
漫画の趣味はかろうじて合うかも。
地に足は付けているはずなのだがこの人の存在だけが良く分からない。
完全に効用外の物語。
だからこそ好みなのか。
今日は考えてないので、文字数少なめでここまで。
おやすみなさい。
あなたにとって面白い人生物語でありますように。