汝関わりなきことを語るなかれ

 

 

言葉の呪縛は世界の檻。

 

 

スピーチに失敗する夢を見た。お祖母ちゃんと会った居間が舞台なのだが、登場人物は中学校の同級生達だった。フリーテーマでスピーチをするということで何故かトップバッターになった。草稿は頭の中にあって話し始めるのだが、上手く言葉が出なくなり時間切れ。それを同級生に馬鹿にされるという下り。

 

「僕は人の頭に何があるか気になるので、色々なことを考えます。」という始まり。中学生の語彙でこれを語ったら、おそらく思慮深いというよりは夢想的と評価されるだろうな。夢の感想としては、自分よ、真面目に語らなくて良かったよという評価になる。むしろ今でも文章に書いているようなことを生活圏の人に語ったところで、地に足が付いてないと評価されるだけの気がする。具体的な相手の興味と一致することはないから生活圏では基本的に聞き役である。恋人さんとか酔いと宵が深まった飲み会の場ではちょくちょく開陳していたような気もするが、そういう人物だと見られたい訳でもないから変な葛藤がある。

 

スピーチと言えば、ゼミの初飲み会でトップバッターとして挨拶をしたことを思い出した。夢のモデルかもしれない。ただ、現実では1笑取って成功だったが。トップバッターになったのは、単にゼミの発表が1番目だったから。判例百選という法学クラスタ(界隈)では有名な学問的に重要な裁判集の中から1つ選び、事実の概要、判決はなんと言ったのか、学説はどうなっているのか、最後に私見という並び。今だったらもっと面白そうな裁判選ぶし、私見もマシになるだろうな。

 

スピーチという概念。これって外向性の極地だと思う。僕は内向性の極地みたいなところにいる。ただ、内向的という内に向かう性向でも、本当は外に表現したい自分が在るということになると隠れ外向性になる。アーティストの方々はそういうことになりそう。で内向性の極地でも結局世界としては外に向かざるを得なくなる。自分がどのようにして構成されているのかという思考は、構成した自分以外の存在に向かうから。

 

ここで必要な言葉は人に話す用ではなく、自分を物語る用。

 

 

さておき。

 

 

外に出ると雨だった。雨で膨らむ綿のような雀の群れ。へちまの花もアサガオの花も元気。通り道の公園では白い彼岸花も咲き始めている。綺麗な世界だ。髪を切った時、雨が降ったことによって髪を切ることをキャンセルする人が多いと聞き、そういう人は世界に生きるのがとても大変そうだと思った。いちいち環境の変化で行動を変えないといけないのはあんまり自由ではない。雨の世界も楽しめれば良いのにな。

 

いや、僕はどんな世界でも楽しみを見つけそうだが。笑

 

原始仏教の尊者曰く、悟っても体については痛いものは痛いとあって、うむ、真理。全身ほとんど隈なく筋肉痛。昨日走ったのもきいているのかもしれない。でも、これは痛いだけ。考えることはできるし動くこともできる。考えることができなくなるもっとも手っ取り早い自発的行動は二日酔いになること。水を飲んでも吐いてしまうという時間の経過を願うしかない状態は、ほとんど心身が一致していると言えるかもしれない。メタ認知もできるべくもなく。

 

地に足が付いていないようだが、自身の人の範囲が拡張したのか、仕事の人の観察範囲が増えている。良いことなのか分からないが。同期とお洒落な先輩の手抜き具合が見えてしまう。いや、手を抜くところは抜いて、なるべく時間を経過させるというのは分かりみだが、そうやってやり過ごした後にきちんと世界を楽しめるのだろうか。

 

あと、仕事場だからかもしれないが、人って他人は結局他人として見ているのだろうなという意味での手抜き。これは手抜きではなくふつーのことだと思われる。ここでいう手抜きは、バイアスという名の脳の省エネだから、エネルギー消費はなるべく控えるという行動経済学的な話。

 

僕は色々手抜きを辞めた(部屋の掃除はあんまりしていないが)ことにより、世界が鮮明になって楽しくなってきているところだから、世界感としてこういう界隈はよく分からないなとなっている。カテゴリーも省エネみたいなところはあるが、それはそれで括ったままにするということではなく、抽象化することによって思考を進めるためにある。

 

ただ、これは僕があまりに不器用だからなのだろうなというところがある。考えた物事、意識化した現象しか世界にならないって人格としてめんどくさ過ぎる。見た世界、コピペとしての言葉を世界そのものに捉えた方が楽には違いないのに。

 

インプットされるものはたしかに「世界」だが、このままではアウトプットできない。アウトプットするためには、自分でインプットを翻訳しないといけない訳で、翻訳ができない領域の世界は、現実と言えるのか、いや言えないだろうという世界観。別にこれは誰かに話せるかどうかではない。発話で自分をきちんとアウトプットできる人は発話の天才だと思う。あくまで自分の中で再現できるかという水準。

 

内向的と外向的の話に戻るが、先輩男子と女性上司はとても外向的だと思う。これは、外からの規定によって自分が定まるという意味。話すこと、発信することによって自分が表現され、そのことによって自己観が在る。聞いていると、話が全然進んでいないのだが、たぶん当人達はそれで良いのだと思う。お互いがそうやって存在を承認し合っている。

 

仕事界隈。6年くらい一緒に平日働いていて、こんな会話しか起こらないのかという不思議。

まぁ、僕も上司になったらやりそうだが。

 

僕の言葉は内向性のもので、誰かに伝われば良いというものではない。

読んだら分かると思われるが。要は、僕の存在が承認されるために書かれた文章ではないということ。僕の存在自体は文章外にあるし、別に誰に承認されなくてもふわふわ遊んでいる。

 

この自分として考えることができることが大事。

 

刑法とか民法もこの水準で考えだすと面白くなってくる。僕はまだまだ世界を知らない。

省略。

 

しかしながら、この水準で具体的な人のことを捉えて良いのかとなると、なかなか困りどころ。僕が関心を持つ文章は、現実的な書き手としての存在もありきだし、そうなるとどうも委縮が起こる。この辺り常識人。

 

あと、全部のカードを開示するって原理的に不可能なのだろうなと思う。言わないとか言えないとかではなく、言おうとしたところで、言った先に新たなカードがほぼ無限に生まれるし、自分を全開示することは現実の時間の縛りでは不可能。何も開示しないのが不可能と同じように。

 

よし、宵顔さんに私信送って寝よう。

 

おやすみなさい。

 

良い世界を。