書き換え

 

 

手抜きとうっかりと過負荷(ストレス)は現象的にはあんまり変わらない。放置と観測もそうかも。なんだか自分がやらないようなミスをして、どうしたことかと思っている。原因としては知識不足とか聞き取り不足とか意識化を怠ったからなのだが、申し訳ねぇ感が半端ない。顕在化するのかどうかは相手次第だから、おそらく客観的にはそれほどのことではないが、主観的にはなんだかぐるぐるしている。

 

BGMから「僕の人生とは関係ない」と流れてきて、まぁ確かにこの相手は僕の人生には関係ないが、また他のBGMで「ほんとはこんな人間です、どうしようもなく屑な人間です」と流れてきて、ここなのかという感じもある。感情論というか他人を重くし過ぎなのだよな。自分を軽くしているから。

 

まぁこういうのも楽しむというか、受け入れないといけないな。自分に対する「至らなさ」の感情は、昨日のカード論とか人災上不可避だし。人のここはほぼどうでも良いのに、自分のだけは気にするというのはアンバランス。ここを完全に見渡せるようになったら、僕は既に肉体から離れている。

 

顕在化して信用が落ちるのも面白いかもしれない。人生を物語の概念で捉えるのであれば、どういう経過を辿るか、ハッピーエンドなのかバットエンドなのかはコントロールできないし。意志で関与できる領域はごくわずかだろう。ただ、このごくわずかな分岐で随分変わってくるはずだが。

 

ここで想ったのは、自分に対する信用、信頼あるよっていう所作についてちっとも安心できない根があるような感じもした。どれだけ注意深く接したとしても容易くひっくり返ってしまう概念。慣性と変化であれば変化の方が重いというものさし。屑人間というか、情で人を見ていないところがある。見られなくなっているというか。情がないことはないが、情を基準とすると自分で居られなくなる。

 

さておきで、彼岸花の増殖速度は凄いという通勤路と、帰り道で見上げたお月様が半分弱だったという光景描写からのほほんと書きたかったのだが、今日はこのまま潜るしかない。

 

情と言えば、行動経済学で、倫理経済学というカテゴリーが出てきた。経済的行動の中にある倫理観の話。残っているのはカントさん。カントさんどこでも出てくる。曰く、「人を道具として扱うのでなく、目的として扱うべき」とのこと。どういうことなのだろう。分かるようで分からない。直感的には、人は目的とすら扱うべきではないという感じなのだが。

 

「道具として扱う」は、自分の効用のために人を手段として扱うということだろう。ただ、これって割と普通のことでは。人に聞くとかも含まれないかという疑念。あぁちょっと分かった。聞くという行為では、その人に聞かなくても済む情報を聞くこと(謝罪文の書き方とか)が「道具」で、その人そのものを知るために聞くこと(本名とか)が「目的」か。ここまで開けたところで、経済的行動とどう繋がるのかは不明。

 

そもそも経済的効用ってなんだろうなとなると、なかなか難しい。交換できるカテゴリーの中で比較的良いものを選ぶというイメージなのだが、たしかにこれに人を当てはめると「道具」になる。婚活市場とか呼ばれるやつ。人そのものより外部の条件の方が大事になる。

 

ややこしや。

 

本日、「失敗 自責」でグーグル先生に教えを請うたところ、自責思考と他責思考というものがあるらしい。いくつか読んでみると、自責思考が良い、いや悪い、そうは言っても他責思考も良い、いやいやこちらも悪い、いやいやいや、自責思考も他責思考も進歩がないから反省だけすべきという、百花繚乱な見解だった。

 

僕の目的は、この自責の念をどう扱えば良いかということだったから、肯定も否定も求めておらず、やっぱり自分で決めるしかないのだなとややすっきりしたのだが、正解を求めてインターネット世界に入り込むと自分が信じたい情報しか目に入ってこないよな。

 

最終的には、他人を巻き込んだ失敗も楽しむくらいにならないといけないという自己観。これって、刑法上の過失概念とも通じている。社会生活上期待される注意深さで過ごしている限り、罪に問われないという意味で。余計に自罰する必要はない。

 

観測するのは良いが、余計に色をつけたりダメージ受けたりすることはないのだよな。僕は相手が僕をどの程度で捉えているのかということは気になるが、別に自分の興味と連動されていることは求めてない。この相手が自分をどう捉えているかは現実生活ではほとんどない。だって、カードが全然さらせないのが現実生活で、皆自分の物語を生きるのに忙しそうだし。

 

僕が本を読むことを好むのは、生来の聞き手というか読み手であってあえて参入することを欲してないからなのだろうな。シンクロニシティが凄い世界。「考える身体」の中にメディア論のマルクハーンさんが出てくて、あぁ当然この人も既読なのかとか。

 

行動経済学以外2周目に入っている。そろそろ新規参入を追加せねば。僕はどうしようもなく頭が悪いが、周回を重ねれば理解できるくらいの余白はあるらしい。自然科学分野はおそらく5,6周しないと分からない。この任意で読み返せるというのが、本と人の違い。人の発話は記録できないし、それほど自身を語ることができるツールではない。目的が違う。

 

 

僕は僕を生きるしかないから、自分の眼と感覚で世界を捉えて物語を展開しないといけない。自責の念は僕の物語には不要な気がするが、これっておそらく、ここを無くすと現実世界と繋がりが完全に無くなってしまうぞよというアラートな感じ。でも、自責でしか繋がれない現実って面白くない。

 

どうせなら、契約でなく約束で繋がる方が良いな。

 

何を大事にしたいのかとするべきなのかは倫理観も伴い混同されていて、救い上げるのが難しい。

 

僕が大事にしたい人物の共通項は、自分のホメオスタシスのルールから離れた扱いをしてくれた人。お友達が典型か。逆に、恒常性の中で大事に扱うならその中身は誰でも良い。仕事場が典型。そうか、改変を試してみても良いのか。

 

なんでそういう扱いをしてくれたのかは気になるところだが、それを解明しようとしたところで、カード論的にあまり意味がない。問題は僕の存在が効用としてプラスになっているかどうか。

 

これを恒常性としての生活と連動できる人物が居ればというところなのか。

 

僕は実生活上では「べき」物語を重くし過ぎて不自由になっているのだろうな。かといってインターネット世界においても自由かというと微妙。

 

生活を巻き込んだ施行にも手を入れる必要性。

 

文字数少なくなっているのは、凝縮されている感。

 

では、ここまで。

休みくれって言うだけ言ってみよう。

 

おやすみなさい。

 

良い反省を。