かみさま

 

 

米津さんの「死神」良いな。「落語心中」という漫画感がある。落語は音声だけの芸術ではないから直に観てみたい。音楽の根は呪術にあるとの「芸術学」。古代では医術にも遣われたとか。今でもあるか、音楽医療。

 

さておき。

 

彼岸花。僕が生まれて18年過ごした生活圏だと圧倒的に赤が多くて白は珍しいというイメージだったのだが、今の生活圏だとむしろ赤の方がマイナーだ。通勤路の公園も8:2くらいで白だし空中庭園檸檬の様子を見に行ったら、ここにも白。白の彼岸花ってよくよく見ると赤みが差している。照れで朱を差す肌の趣。可愛らしい。

 

この可愛らしさは去年も書いた気がする。よく酔っぱらいは同じことを繰り返すというが、人が同じ言葉を繰り返すのは酔っぱらっている時だけではない。認識が更新されない、できないことに対することは同じ言葉に集約されざるを得ない。いい年になったら人の認識はよほどの環境の変化がない限り勝手に更新されることがないから、更新させようとしないと別の言葉は生まれない。あとは更新しないと決めたことか。

 

仕事。本日のところは僕の「至らなさ」は顕在化しなかった。代わりなのかなんなのか、同期の不手際が顕在化されていた。明日は我が身。同期、おそらく僕の仕事の仕方を参照しているのだろうが、人格と重みの付け方が違うから無理。先生をもっと使った方が良いと思う。

 

観測していて思ったことは、1つの不手際が顕在化されたところで、特に仕事場での扱いが変わることはないということ。上司すらそれほど気にしていない。まぁたしかに、今までの人材育成期間ないし費用から考えると、残って仕事をしていること自体に価値があるから、1つや2つの失敗で切るようなことはないというのが普通の見方。

 

結局、自責思考は自分にとって有用な場合にだけ用いるべきものであり、不確定な事象や事情や感情を加味して世界を捉えるべきではないのだよな。まだやりたいようにやれる余地はある。まぁ余地があったところで、定年までの仕事とは思えないが。

 

「迷惑」という言葉も死語にした方が良いのか。

いや、この言葉で社会生活上の自分の行為を統制している人は撤廃したら大変なことになるから止めた方が良い。

 

「駄目元」はもっと遣った方が良いとなってきている。

 

 

ご飯。豚ロースと言えばなんとなく蒸し料理か生姜焼き。昨日はキャベツの千切りとブナピーと一緒にレンジで蒸してポン酢と顆粒かつおだしで和えた。副菜はオクラとワカメの胡麻和えにマヨネーズを加える。ただの弁当画像なのだがお友達が楽しんでくれいているようだから、なんとなく撮れる時は貼るということをしている。

 

こういった正の向きの不確定な事象とかなんとかは加味した方がのほほんした世界になる。

 

豚ロースはまだ半分残っていたが、本日は舌が完全に鶏肉になっており、ささみを買ってケチャップ炒めを作った。ほんとうは火が入った鶏肉ではなく刺身だったのだがこれは家で食べることができない。

 

というのも、仕事の空いた時間に今度行く文学フリマの会場の地図を眺めていたことによる。宵顔さんの新刊を購入した後ビールを飲みながら読書にふける空間はどこかと探していると、中之島公園がある。この辺りは何度も行ったことがあるから、バラ園とかがまざまざと想起される。ただ、もう少し尺度を拡げると、あぁこの居酒屋懐かしいなということも芋づる式に掘り返された。

 

この居酒屋、直近の元恋人さんと初めて行った所で、別に予約をするでもなく美味しそうなところに入ろうという感じで行きついた。何故残っているかというと、「誰と行った」ではなく「何を食べた」という部分。鶏の刺身の盛り合わせと日本酒のひやおろしの組み合わせが絶品で、店の雰囲気も良い。今のこの時世でも、1人でも唯一外食しても良いなと思える場。僕の人格上思い出補正はかけないから、たぶんほんとに美味しい。直近の元恋人さんとはこの辺りで歩きながら居酒屋を開拓しまくっていて、なかなか爛れた(食)生活だった。当たるも八卦当たらぬも八卦大阪駅の周辺はだいたい外れる。

 

なんだか「人」と飲みたくなってくる。会うついでとかではなく純粋に。

 

ただ、文学フリマの日は日曜日で、ここでご飯を食べてしまうと帰ってから弁当だけ作ることになってアンバランスな物語。公園まで行ってしまうとちょっと道行が遠くなるし。やっぱり突発的に休みが取れるのかという駄目もと交渉が問題になってくる。

 

社会倫理を度外視すれば、当日体調不良ですって言えばこのご時世では休ませくれるだろうし、職場の統計ではそういう人は結構居るからあんまり気にしなくても良い気もするが、そこはきちんとしておきたいところ。真面目というより、嘘を付くと自分にダメージがくるという自衛。

 

もっと物語を展開させると、どうせなら生の鶏肉が好きな宵顔さんにここのお刺身をご馳走できればということになってくる。そんな1日があれば、おそらく日記を書くことがどうでも良くなる。

 

いやいや、と我に返る。

そんな面白いことが誰かと一緒に起こるはずがない。(ほんまか?)

これも駄目もと交渉のレベルなのでは。まぁ、条件的には職場の駄目もとが成功した後の段階だから、なかなか現実化のハードルは高い。僕の仕事上の人格がどこまで上司に信頼されているかによる。

 

 

文面読めばわかると思うが、随分とハイになっているな。

 

やれやれ。

 

行動経済学に「無条件の愛」という概念が出てきた。無条件に他人を愛せない人は学習段階とみなすというフレーズが出てきて、たしかにだいたいの人は学習段階で留まっているなって思う。ここでいう無条件というのは、関係によって扱いを変えないという単なる素朴に相手を見るだけのことなのだが、関係を愛と混同している。この文脈で恋愛は一過性だから、

結婚という契約に至るのが愛だみたいに書かれていて、ほんまか? となる。

 

関係によって現実的な重みがあるのは当たり前。物体としての自分は1つしかないし、民法みたいに代理人によって人格を分散することはできないし。行為と見方の話。自分に効用がある対象だけえこひいきするということであれば、それはまだ学習段階ということ。この学習段階って観念、とても好ましい。僕は一生学習段階でいい。

 

これが学術書で書かれているというのが、とても気楽になる。

 

「オトナ」は現実世界上、稀有的な存在。

 

女性上司に試験受かったのかと聞かれて、駄目でしたと応えたら盛大に笑われた。だったらこにずっと居たら良いじゃないって言われて、てきとーに話を合わす。これは効用によって扱いを変える典型。先生にも話を振って、硯君はずっとここに居るらしいよという女性上司の発言に対して、僕は背中を押す方向なのだけど、と言ってくれる。オトナ。この人には本音を語っても良いのかも。場があれば。

 

効用によって扱いを変えるって、カントさん曰くの人を道具としている所作なのだよな。

居ても居なくても良いが、居たら嬉しいという感じの方が、ちゃんと人を捉えている。

 

僕はそういう人にしかコメントしてないな。

 

言葉が出なくなったのでここまで。

 

ちゃんと見ています。

 

おやすみなさい。

 

よい物語を。