読書論

 

 

 

はい、三連休。ちょっと服を新調したい気分だったが台風の影響もあり自分と本に引きこもろうと思う。来週は休み多いし。休日の交渉は今日しても良かったのだが、なんとなく「急にできた用事」感を出すべく来週の方が良いような感じに従う。その日でないと意味がないが、急だしその日休みの人も多いから駄目もとですって言ってみる。今度の機会はない気もするが、それはそれで縁起というやつだろう。

 

アクションを起こすかどうかまでは自由の領域。

 

そういえば、雑談で「ポテトサラダ」という単語が聞こえてきて、件の居酒屋、これも美味しかったような気がする。個人的にはあえて注文する料理ではないのだが、直近の元恋人さんが好きだったからいろんな居酒屋で食べた。ここだったような気もするし違うかもしれないが、粉チーズが入っていてジャガイモも完全に潰し切ってなくて、上品で美味しかった。

 

(宵顔さんはポテトサラダも好きそうなイメージ)。

 

ポテトサラダの単語だけで、これだけ引っ張り出される。居酒屋情報の発掘は飲みに行きたくなってくるから駄目だ。相手が居ないし、今まで飲んだことがある人でまだ飲みたい人って鳥取の友人くらいだもの。お友達は確か飲まない人だし。

 

さておき。

 

本日はだいたいぼーっとしていた。ぼーっとすると世界がよく見える。出勤では小雨が降っており、家を出てすぐのへちまの花があったあたり(フェンスに巻き付いていた部分は刈り取られてしまった)、に猫氏が座っており、めっちゃ見てきた。なんだ触られたいのかと思ったが、基本的に逃げられるのでこちらも視線を注ぎつつスルー。白の彼岸花はさらに増殖していて、向かいから歩いてくるおじさんがそれも見て微笑んでいたのも見逃さない。良い季節ですね。

 

至らなさも顕在化しなかったし、僕が想像していることって基本的に起こらないのだよな。つまり、宵顔さんに鶏の刺身盛り合わせをご馳走する世界線も基本的には起りえない。一種のジンクスなのか? 思考の現実化は、今のところ自分の世界の内でしか起こっていないし、未来は未定の方が良くも悪くも楽しいからなのか。冒頭の自分に在る情報とか悪用すれば、もっと任意的に世界を過ごせそうな気がするが、やってしまうと禁忌みたいな観念。

 

でも、これも取り去っても良いのか。別に何かを人から奪い去るみたいなつもりもないし。いや、認識はどうなのだろう。

 

マルクハーンのメディア論を要約した本はもう4周目くらいなのだが、メディアって要は「前提とされる認識できない世界観」なのだなとさらに翻訳した。原文は、「社会における基本料金」。自分がどういう風に社会を見ているのかは意識されないというか、意識できない。この自明な自己がメディアによって形成される。別の分野なのだが、租税法で税金も社会における基本料金という表現があった。税金は課されるのが当たり前だとしましょうということで、社会システムはそうなっているとしても、この社会システム自体は意識されない。たぶん租税法学者さんですらそうだと思う。存在意義なくなるし。

 

もっと面白いのが、「ことばと意味」という言語哲学の本の中にある、言語と認識の関係。言語的に情緒が細分化されてない文化では、言語が存在しない領域では経験として残らないという言。社会は考えられるのを拒んでいるというフレーズは面白い。たしかにそのものを考えられるより従ってもらった方が社会は回るし、これで一番わかりやすいのは敵を作ってあげることと、注目すべき事象を提供すること。

 

僕が日本語圏で生まれて良かったのはこういうところで、感じに当てられる言葉が在るし、感情を示す単語も感じそのものにしなくて良い。好感はライクとラブだけでなくて良い。

 

世界は当たり前に1つしかないだろう思っている人にとっては、ここの文章は何を言っているのかさっぱりだろう。ここで持ってくるのが、知覚のカテゴリーの認識と錯視。何回か書いている気がするが、人は素朴に世界を見間違う。自分は世界を見間違っていないと思っている人が居るとすれば、学習段階だと思われる。

 

脳が見ようとしている世界と意識されている世界はそもそも若干ズレているし、記憶が社会的に信用ならないから記録という外部メディアが発明されている訳で。会計学が対象としているのは対法人という得体のしれない存在で、相手がどういう履歴なのかというのが対人のように印象では判断できないことによる。人のことを条件とか履歴とかの事務情報で判断するのは、自分の印象を信じられない不安感からなのだろうか。

 

素朴に考えると、人は見たいものしか見ないし、聞きたいことしか聞いてないし、触りたいものしか触っていないし、においは、どうだろう。まぁ、こうやって構築されている世界観がどうして客観的な1つの世界で在りえるのだろうというのは気になる。賛同者が複数居るからだろうか。

 

別に世界観としては問題ないと思うが、これって素朴な自分に成ることを拒絶した所作にも思えなくもない。素朴な自分とはそもそもなんなのかという思考は前提条件を排除していく断捨離だから、寒く寂しいのかも。その個体がその人そのものなのだが。

 

色々とスピリチュアル系の本を読んだところ、「本当の自分は何をしたいのか」というセルフカウンセリングが推奨されている。たしかにこれも断捨離思考の一種なのだが、個人的にはナニカ足りないような気がしていた。そこで考えたのが、「自分は何をどこまで認識しているのか」という自己問答。

 

勝手に出てくるのではなく、自分が任意的に掘り出せる認識は何なのかどれほど言語化できるのか。これをやってみると、思いの外自分が世界のことをほとんど認識していないことが分かる。無知の知を推奨している人格だから良いが、自分が何かを知っていることがアイデンティティになっている人格だったら自分が自分でめちゃくちゃ恥ずかしくなると思う。

 

自分の認識は、誰でも読んだら分かるようにガイド化できる水準なのか。

分かってくれる人だけ分かれば良いというのもアリだが、それは本当に認識できていることなのかというと微妙なところ。例えば、自己紹介で固有名詞を使わずに来歴を言語化できるか。めちゃくちゃ難しい。

 

最近やっているのが法学界隈のことで、自分の中で翻訳こんにゃくできてないことは僕には認識できていないということが分かった。認識できてないことは言葉にできない。

 

この認識は、自分自身への認識にも連動している。

 

もちろん語彙が少なくても人生は過ごせる訳で、本を読めない若年層が増えることを憂う人が言う、教育に読書を採り入れることってほとんど意味がないと思う。やらされて残ることって身体上の記録であって、文章の味わいとか文意を探るとかではない。

 

情緒は本よりも周りの環境によるから、教育に丸投げするのはいかんとも。

 

 

凄いぶっちゃけだが、僕は読書を趣味にしている人ともきっと合わないのだよな。認識の承認のために本を扱っていると思っていて、本来の扱いではないでしょうって。

 

ここで言うとマルクハーンさんの言の方が正論で、若者を古典嫌いにするためにはシェクスピアを教科書に採り入れたら良い。読書を義務とする人の言なんか子供は聞かない。ある本がどれだけ面白いかを本気で言語できるならともかく。読み聞かせもちゃんと聞かせる側が楽しんでないと効用はない。

 

僕は個人的に活字を読んでないとしても若者の情緒は更新されていると思っている。男性が泣くことに否定的評価がないこと。雑談でもそうだし、個人的に見ている猫ようつべもそう、僕の時代ではあえて男は泣くなという言葉は無かったが、そういう雰囲気は残っていた。

 

泣くのはストレス昇華で良いことだから、泣きまくれば良いと思う。

 

読書で一体何を採り入れたんだという感じ。素朴な自分とは反対の体感を疑似体験できるのが本来であって、こう読むべきみたいな話ではない。

 

情報を読み取れるかどうかだったら、読書よりもネット記事の読み方とかリテラシーを学ばせるべき。真実が書かれているかどうかは分からない。これってずっとあることだが。

 

僕のインターネット世界におけるリテラシーだと、書かれていることが本当かどうかわからなくても惹かれてしまう存在を見れば良いとなる。

 

はいここまで。

 

人生楽しいな。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。