ニート

 

 

やや激しくなっていた雨をベランダから眺め、BGMにしながら寝ると台風は過ぎ去っていた。夕方に出かけた帰り道、別ルートに猫が座っているのを見かけふらふらと歩いて行くと、おや、貴方は昨日の朝の猫氏では。当然のごとく逃げられるが、さらに新顔さん。なんというか、人の顔感が凄い猫だった。しばらく目線を交わし挨拶して過ぎる。もうさらにおかわりで家の前に親子猫。子猫がフェンスの下を通り抜けようとする肢体、かわよ。

 

居酒屋ご飯情報、もう少し出てくるかと思ったが、だいたいは酒と一緒に流れてしまっている。学生時代は安い飲み放題があるチェーン店ばかり行っていたし、高めのチェーン店もお洒落だが、ご飯が美味しかったイメージはあまりない。その後の時系列で、長く過ごした恋人さんは馬刺しが好きだったとか、高知ののれそれは美味しかったとかは出てきたが。

 

昨日、帰り道でふと思いたって母親に台風気を付けましょうと送ったら、その日は伝言メモが入っており、今日は着信があった。なんだか随分自分が丸くなったというか、余裕できたなという感じ。だいたい着信があるときの時間帯って個人的にはおべんきょ的な本を読んでいるゴールデンアワーでこの人ともタイミング合わないなって毎回思うのだが。

 

話を聞いいて時間を流すというのが基本形だったのだが、ふと遊び心が起こり、「お母さん、YouTube見るんやっけ? 地元の動画をアップロード(原文は映像をだしとる)している人がいて云々」と。通話が終わりLINEにURLを送り付けてお風呂を溜めながら洗い物をして帰ってくると、また着信があり、たぶんアプリの操作が上手くいかなかったのだろうなと思い折り返す。案の定、全画面にする方法が分からないと言う。

 

「画像を指で押したら右下の端に四角の記号が出てくるけん、そこを押せば全画面になるよ」という説明を2回した。仕事で機械に疎い人に説明をすることが結構あって、仕事の考え方も役に立つものだなと思った。自分の認識が当たり前だと思っている人って、人にも説明できないし、人の説明もあんまり聞けない。母親も随分力が抜けるようになったものだ。

 

見れましたというメッセージが入り、良かったですと返す。

 

 

こういうやり取りができたのは、本日読んだ漫画の影響。ちょくちょく笑ったり泣いたりしながら読んだ。「働かないふたり」というもともとネットで無料公開されていた(今もそうだっけ)漫画で、読み返してもやっぱり好きだ。一時期ネットで無料掲載しているマンガは無茶苦茶読み漁ったな。個人的に「洗濯荘の人々」と、寿命が可視化されている世界の話(タイトル忘れた)と妖怪日記と、あれとそれと、好きを語るとキリがねぇ。良い時代に生まれたものだ。

 

 

「働かないふたり」を読んでいると、これこれ! という感じがする。個人的に「身体は忙しくても心は暇人」という精神規範がある。このフレーズが出てきたのが高校1年の時に、ガラパゴス携帯で中学の同級生と電子メールのやり取りをしていたとき。この辺りではまだ僕は僕だった。

 

この漫画は1言で言えば、ニートの兄妹を巡る人間関係の繋がりの話。ニートである時点で拒否感を抱く人がいっぱいるだろうし、ニートであることで仲間意識を持つ人もいっぱいいるかもしれないが、これは表層的な評価であって、この漫画の中核テーマは、「心の余裕」だと思っている。時間に余裕がないと心の余裕できないという分かり易い生活譚にしているが、時間の余裕と心の余裕はイコールではない。

 

登場人物が少しずつ人格的にずれているのだが、きちんと優しい。主人公の兄妹が相手をその人そのものとして承認する人格なのが現実世界とのズレをもたらしているような感じ。妹はゲームばかりしているし、人の表層的な変化には気づかないのだが、高校時代の友人が整形していてもその人だと分かるとか、ちょっとした落ち込みにも気づく。書いて思ったが人というより猫みたい。笑

 

ただ、天気のエピソードはとても良かった。友達の客というモブキャラが、「カップルは天気の話」をしだしたら、話題が無くなったという意味で終わりだよなと語ったあと、女友達3人で散歩に行って、妹が天気について語る。ここの景色の春は、夏は、秋は、冬はってそれぞれ良いところがあるみたいに。そうして友達は、今度付き合う人はこういう天気の話ができる人が良いなってなる。うん、たしかに。

 

ゲームばかりしている妹になんでそんな語彙があるのかは、兄が本の妖怪でコミュ力お化けだから。ただ、本の読み方と世界の捉え方がとても好き。この人が学生時代友達だったらもう少し早くここになっていたのだろうなと思う。本は凄いのためにあって、凄いと思われたくて読んでいるものではないというフレーズとか、人に本をお勧めするのは難しいとか。

 

何に価値があるのかをちゃんと自分で決めている。

これを普通に書くと読者が着いて来られないから、いや、ニートなのだがという緩衝材。

 

もう1人本の妖怪が出てくる。この人も好き。ドストエフスキーを4周するとか、創作に集中するために会社を辞めるとか。小説を書くのはマラソンだという例えはきっと村上さんからで、この人の喩えでは「旅」であって、なるほど、しっくり。読む人が旅することができるような物語は作り手も自分の中で旅をしている。

 

これ読んでいて分かった自分。

僕はどうでも良い人物になりたいのだな。いや違う、どうでも良いとされることでも考えるような人物でありたい。ここで書いている思索パートはほとんどどうでも良いことだと思っているから、凄いと言われるのはやや困る感。おでんの「でん」は漢字で当てると「田」のかという謎を世の中のシステムと同系列で考えているし。

 

兄が言っていた、どんな人を好きなのかで、「一緒に居て楽しい人」というのはとても分かりみ。楽しめるというのはダイレクトで余白があるかどうかになる。自分の環境とか境遇とは別問題にできるかどうか。

 

あと、僕が気になる人の共通項、無関係の人を本気で気にしていること。

本気の定義は時間をかけるでもお金をかけるでもなく心をかけること。こんなの実証できることではないから印象論であって、自分をどこまで信じられるかになる。

 

僕が宵顔さんの文章に一目惚れしたのはそういうところなのかもしれない。

その後も、僕が素朴な僕で在って居ても良いという承認とか。でも宵顔さんはおそらく今「一緒に居て楽しい人」と生活しているのだよな。僕もそういう人見つけたいな。

 

 

やれやれ。

 

思索パート。

 

神話の共通項についての試論。原始宗教の共通項は洪水とか三位一体とかあるらしいが、個人的に気になるのが、「やり過ぎると神罰が下る」というところ。バベルの塔とか、プロメテウスとか。これって、童話の教訓と余り変わらないのではという仮説。その時代の支配者が、人民の上限はここまでにしとけよという一種のサブリミナルみたいな効果が神話にはあったのでは。

 

神話とか童話はたかが物語だろうという侮りが、勝手に世界観を決定されているという節がある。僕は神話(メディア)には耐性ができているから、当たり前をそうだと丸飲みすると胃がもたれる。

 

という意味で、僕は結構、一般の人は怖いものなのだという不安と一緒に過ごしている。自分の生理的価値観と合わない人をどう扱うかで一番楽なのは理解ではなく排除だろうし。具体的に関わればだいたいは解消しそうな気がするが、具体的に自分を表現できる言葉を持ち合わせているのか。

 

 

うむ。

 

僕は中できちんと旅をする必要がありそう。

自分のこと自体がまだあまり分かっていない。

 

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。