外からくる言葉

 

 

また少し世界が軽くなる。

なんでそんなに気にする必要があったのか、あったのだろうな。

 

2日休みがあると平日の冷凍ご飯は消費されるため、本日は朝からご飯を炊く。炊きながら水とお茶をコンビニに買いに行く。ついでに買った飲むヨーグルト(いちご)は飲み忘れて冷蔵庫行きになった。

 

朝ごはんは数十円で売っているうどんを茹で、暖かいまま水を切り、大根おろし、温玉、納豆、梅干しに生姜入りめんつゆ(風)のぶっかけ温うどんとお膳半分ほどのゆかりご飯。大根おろし美味しい。昼ご飯はステーキ肉が1枚残っていたからステーキ丼にしようかと思ったが、厚揚げの消費期限が昨日だったため、厚揚げの親子丼風を作った。

 

夜ご飯は、野菜が届くから食材は追加しなかったが、スーパーにはビールと無糖コーヒーとベビーリーフを補充しに行った。Edy便利だわ。クレカ読み取ってくれないレジが1台あってそこに当たるとめんどいし、クレカの読み取りがそもそも時間かかる(時短)。夜ご飯はステーキ肉とピーマンと人参(レンチン下茹でで時短)のデミソース風炒め。

 

荷物が届いた。何かのお菓子と味付け海苔(おかし感覚で食べてしまうくらいの海苔好き)、野菜は、さつま芋、里芋、茄子、ピーマン。おばあちゃんに電話して、お礼を述べる。美味しそうな里芋レシピを伝授して貰った。洗って土を落として下茹ですると皮は簡単に剥ける。あとは塩としらすと味噌で和えるとか。副菜としてかなり良さげ。

 

そうして、作ってみるわと言ったら作ってくれるような人はできないのかと聞かれ、まだいけん。と答えた。でも、そんじょそこらの人より上手く作れる気がするし、ここを条件としてパートナーを探すとかなり難しそう。笑

なにより、僕は日常でご飯作るの楽しんでいるから、上手く作る人より楽しく作れる人が良い。楽しくないならあえてしなくて良いし。

 

あと、最高の孫なのにパートナーできないのかって残念がられたのだが、褒め言葉としてはあんまり宜しくないと思う。こういう語彙が苦手なんだよな。最高の人物とか男性とかであればあるいはだが、孫で括ると、他の孫である姉と妹はどうなのだという感じがしてしまう。

 

細か過ぎると言われたらそれまでだが、語彙は世界の捉え方と等しいから、できる限り調整した方が良い。僕なら相手を認めているなら、パートナーいなくても問題ないで、と言うかな。

 

少し軽くなった話。僕の人格の空っぽ感と失敗に対する異常な抵抗感ってここだったのかがなんとなく分かった。

 

ゲーム実況も更新に追いついてしまい、ハリーポッターも炎のゴブレットも終わったから、何か1冊kindleで読むかとなり、ふと目に留まったアダルトチルドレンの本。もしかしたら、僕を読んでいる人の中では今更かよとなるかもしれないが、きちんと意識できるタイミングでやってきたのだろうな。ただ、典型的でもなく、色々こんがらがった発現形態だと思う。それにもう自分のことは赦しているし。

 

確かに、人の精神的場に居座ることに対する申し訳なさとか、失敗に対する罪悪感は、まさに無条件で人から認められたという発達段階の体験をしていないことによると思われる。こういう段階をきちんと経ている人は、きちんと自分に価値をおけるから、相手のことはあんまり気にならないのだろうなという想像。もうそれだけで人生勝ち組の精神性。

 

ただ、これって、この前書いた、世界の前提のことまで考えなくて良い色眼鏡とセットなんだろうなと思うと、僕は既に別の軸からアダルトチルドレンである自分を克服しつつあったらしいとも言える。この人格でないと気付けないことがたくさんあったし。

 

この本の、失敗に対してしゃーないと言語化するのはとても良い。客観的な社会は自分中心で回っている訳でもないし、印象を形成するのはもっと広い現象だし。自分が気にしたいだけなんだよな。この前の日記は自己カウンセリングみたいだ。

 

この本で言うところの幸せ論は、安全であることを自覚しようみたいな話だった。たしかに最近抽象的なヒトに対する漠然とした恐怖感が意識化されているが、個人的には幸せって社会的な尺度でしかないから別に幸せにこだわらなくても良いじゃないかという感じはある。

 

もう1つ、怒りの意識化。親を罵倒しようみたいなことが推奨されていたが、本職のカウンセラーさんに対してなんだが、悪手のような気がしないでもない。いや、「怒りは何故腰痛を選ぶのか」でも自分の中にある憤怒がどこにあるかのかを脳は見せないようにしているというのがあったから、世界に対する憤怒は意識化した方が良いが、中間段階のような気がする。

 

僕も自分の中の憤怒氏と語らったことがあるのだが、曰く、自分を護らなかった自分に怒っていた。愛を与えらなかったとか、自分を傷つけた相手に対する怒りではない模様。

 

自分を赦せていない人は人のことも許せない。という学習領域の話なのではという感。

という観点で見ると、母親がやたらと怒っていたのも自分を赦せなかっただろうなとなる。たぶん、娘を愛せない自分を赦せないとか、慈愛の心を持てないとかそんなの。母親という役を真面目にこなそうとしていたのだろうなって。

 

母親でなかったら縁がない人だが、何かあるのかもしれない。

無条件の愛を与えられなかったのは、それを知らないからであって全然怒りは沸かない。憤怒氏、僕以外の誰にも怒っていないのだよな。それにこの人、僕を駄目人間とも言ってこない。この前の失敗譚について時に出てこなかったのは、そろそろ自分で気づけという見守りなのだろうか。

 

あと、自分が存在していること自体を認める自己暗示の言葉が「優れている」というのも、中間段階という感じ。優れているって、冒頭のおばあちゃんが言った「最高の孫」と同じような比較の概念から離れられていない。自分事で恐縮だが、僕は客観的に言えば偏差値57くらいには優れていると思われる。ただ、この比較的には優れている客観は僕の自己観を全く補強してくれなかった。むしろ自分のことを制限する方向になる。

 

 

本来は「優れなくても承認する」というのが筋。

だから、自分をご褒美で釣って何かをしないといけないとすることって自分を認めてない所作な感じがして嫌なんだよな。でも、これが一般社会上の精神段階の自分の操縦方法だとされている。

 

健常と異常の違いはまさに社会的な一般的発達段階という意味しかなく、あんまり参照できるようなものではない。僕は軽度だからそんなことが言えるのだと言われたらそれまでだが、異常に本を読んで更新できるのは一般的精神性ではないからなのだよな。

 

文学について考えたとき、精神傾向としての社会的はみ出し者が外からその文化を記録している。新しめでは太宰さんとか坂口さんとか、国木田さんもまぁまぁやばげ。古めでは鴨長明とか兼好法師さんとか。表現物は常に外在性があるから、そこに同化されている人に表現したいという欲求は起らない。

 

こう考えていくと、トレンド的な意味合いにおけるセンスにどれほど意味があるのだろうな。時代の淘汰に負けなかった古典に対して感じるものがないのは自分がまだ足りてないというのは分かるが、たまたまの一過性の流行りに感じられないのは自分の不備なのだろうか。

 

 

日記を眺めていて、IQが高い人は自己制限をかけないといけないというのがあり、ちょっと分かってしまう。IQが高い訳ではないが余計に考えていることはあんまり話せない。人の行動準則とか無駄に想うし。

 

行動準則って、割と簡単。内部のうごうごした部分ではなく、何に対してどう行動するかの現象だから。現象だけ見れば当人の行動準則は割と分かる。ここでいう現象は、感得できる現実と言い直しても良い。ただ、これを見て人を分かった気にはなれない。

 

自分に対して何をしてくれたかとか、自分をどういう風に評価しているとか。

 

無条件の愛は、現象とは無関係のところに在る。

こういうのを気付けたのは僕がこういう人格だったからであって、僕は自分がアダルトチルドレンであることも有効活用しているのだよな。社会において前提とされている世界観を共有しなくも良いという意味で。

 

宵顔さんを好きになってしまったことも無理はない。ここも自分に許すか。

条件付きの世界を捉えているっぽいのに、僕に対してそういう扱いがないのだよな。

僕もそういう扱いは全然していないし、現象は割とどうでも良かったりする。

 

 

アダルトチルドレンの本で、人はそんなに真面目に生きていない、真面目になるのは遊びのときだけだという言があった。これを読んで思ったのは、なんで人生というゲームで真面目に遊べないのだろうという感。

 

もっと遊ぼう。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

楽になりますように。