現実と非現実

 

 

 

もう少し意識的に力を抜いて生きることにした。アクションをしないということではなく、真面目に気を張る(ブレーキ)をあまり気にしない。

 

 

 

寝る前に楽しい妄想をしていたら、ちょっと予定就寝時間を越えてしまった。どんな妄想かというとこの前書いた宵顔さんに鶏のお刺身をご馳走するルートではなく、酎ハイ3本をご馳走するルート。お刺身ルートだと、そこに辿り着くまでに電車に乗らないといけなくて間が大変だが、ちゅーはい3本ルートだと、電車に乗らずにコンビニで買ってその辺で良いというメリット。

 

ついでに、僕がその酎ハイを選ぶから宵顔さんには僕のビールを3本選んでもらう。一番搾り以外で。遊び心。

 

妄想とは言っても、いちゃいちゃするとか、何かいいことを言ってもらうとかではない。この基礎情報はないから、妄想しようがない。さらに会話が捗ることもない。ただ、こんな場があったら楽し過ぎるなと想っただけ、何を話すかどうかも第一声、「あごの傷治りましたか」という色気のなさ。帰りに駅までエスコートすることは変わらないが、

 

いや、妄想とはそもそも基礎の現実情報がない現象を想うことだという節はありそうだが、僕は現実と離れたところに理想を置いていないから、あんまりそういうのがない。この前の宇宙のプレゼントという妄想はどうなのだとなるが、宇宙自体の基礎情報は現実から得ているものだし、誰かを自分にとって頭の中で都合良く動かすこととは違う。

 

こんな感じで寝入ると、具体的な人に対する怒りあるだろうということが出てきた。たしかに僕は閉鎖的な社会に生息する、その価値しか正しくないと思い込んでいる人物に馬鹿にされると怒りが生じる。というのが具体化というか象徴化されて小中と過ごした同級生の男の子が出てきた。ただこれって、具体的な人というよりは、その閉鎖的な社会そのものという感じもする。そこしか知らない人に他にも価値観があるということは分からないし。

 

義務教育に法学教育、特に憲法と刑法を導入すべきという議論はここにかかっているのだろうな。いじめが悪いことだと思わない人種って、いじめが刑法上の犯罪になりうることが分かっていない。いや分かっているとしても子供に伝えられないのか。少年法は悪法なのかとかにも関係する。あと、他人の精神の価値はどうやったら分かるようになるのかな。憲法の平等論とか思想良心の自由辺りにヒントがありそう。

 

現代社会って一般論から離れた精神性を持っている人を排斥することを是とするようにはなっていない。最低限の社会ルールを犯さない限りは内心で何を考えていようが自由という理念。相いれないなら離れれば良いが、攻撃して良いという理屈は生まれない。

 

で、最低限のルールもローカルのマナーとか空気ではない。まぁ、喫煙者である僕もイマドキ歩き煙草するような人とは関わりたくないが、これは最低限のルールの領域の先の精神性だと思われる。最低限の自分の柵を全世界に適用できる訳でもないし。

 

次のシーンでは、長く過ごした恋人さんと森に挟まれた道で手を繋いで歩いているのだが、いつの間にか違う男性になっていて、前のシーンの男の子に見つからないように森に紛れて迎えに行かなくてはとなっていた。この人は具体的なこの人ではなく、象徴的な意味で近しい異性になっているのだろうなという感じ。男性は、アレだ。僕に恋愛感情を持ってくれた人か。別に同性愛は否定しないが、あんまり気持ちの良い気持ちではなかったな。保護すれば愛だという感じ。

 

さらに次のシーンでは、64スマッシュブラザーズみたいな2Dの空間で変な魚が泳いでいる。ここはカオス。明らかに他の魚を丸のみしている肉食の魚類がうようよしているところを泳いで移動する。で、結局三位になった。64スマブラも同級生の家でしかやったことないし、よく分からないシーンだが、もしかしたら現実世界の象徴なのかもしれない。

 

 

さておき。

 

現実は通常営業。白の曼珠沙華は少し枯れていた。帰り道では曇り空でお月様は見えなかったが、夕焼けが美。あと、普通に歩いていただけなのに、かなり近くに猫氏が居てびくっとされた。すまんやで。

 

美の話は後にして。

 

今日も先輩男子と女性上司の雑談は無為に捗っていた。これはそもそも分かり合う目的で会話していないからぐるぐるするのだろうなと思う。雑談って時間が勝手に過ぎるし。LINEとかでもやり取りするだけですぐ過ぎる。

 

この雑談で、「今日は(時間が)長い」というフレーズがあった。たしかに僕もそういう風に過ごしていたのだが、こういう時間を客観的に捉えられるのも前提を疑わなくて済む、社会的に十全な精神段階を踏んで来たからだという仮説を唱えてみる。

 

ところで、現実と夢の違いって、おそらく客観性にあると思われる。現実は恙なく客観的に過ぎる現象の集積だが、夢は断片的だし任意的だし観点的であって主観的なもの。これってそんなに違いあるだろうか。

 

時間の流れが客観的であるというのは、社会生活における便宜のための共同的なフィクションでしかない。メートルとかグラムが世界に存在しないのと同じ意味であって、時間は天気と同じ意味での客観的な現象ではない。

 

そうすると、時間を前提条件にしている現実感っていかほどの意味があるのだろうというか、夢の主観性とどれくらいの違いがあるのか。

 

個人的は標準単位で考える限りほとんど変わらないとした。

そんなことより、その中でどう自分で在るかの方が大事であって、何かするときに時間を気にするのは不純。気にしないようにするためにちゅーはい3本ルートでも次の日は休みにしないといけないんだよな(私事)。

 

この下り理解できる人はそうとうやばいと思う。笑

そういう人こそ好きだが。

 

僕はあんまり生き残る気がないのかもしれない。

自ら退場するという意味ではなく、生き残らせる人格がないという意味。

 

やれやれ。

 

美感の話。カントさんは美学でも泰斗であって、判断力批判を読んだとき、美的感覚は趣味だって翻訳されていて、趣味の意味が分からないとなっていたところ、今読んでいる本が解決してくれた。

 

この原語はtaste。翻訳者よ、せめて、趣と味わいのどちらかにして欲しかった。要は、美的感覚は、味覚と近いらしい。これだったらとても分かる。単位がない主観の話。外からの標準とは無関係。でも美には普遍性があるだろうって探求するのが美学。なかなか不毛というか高遠な学問だ。

 

これを踏まえてもう一回読んでみよう。

 

アダルトチルドレンていすとで言うと、僕が綺麗だと思うものが他人にとっても美しいとは限らないというのが前提になっている。その為に言語表現があるのであって、僕の表現で美を感じられる人は、言葉から当人で美を味わっているのであって、僕が見た現象そのものでない。

 

この疎通って夢みたいものでない?

色弱の人に色が伝わるとか。

 

同じ現象を体感して、綺麗だねって言い合うときに言葉は副菜でしかないが、現実の空間を隔てたときに響く何か。

 

なるほど、これを突き詰めていくと創作に至るのか。

「熱帯」で、「創造の魔術」とは思い出すことだとあったのだが、そうなんだよな。人は自分に在るものしか表現できない。

 

世界を知るって、知識を蓄積することではなく自分を研究することにある。

 

こんな感じでおしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い予感を。