雲海

 

 

 

なんだかゲーム機を購入したい衝動。最新のではなく、スーファミとかPS2とか64とか。そういう夢を見た。何故か本の師匠の若かりし頃(実際見たことはない)がでてきて文句を言われたのだが、どういった象徴なのだろう。歴代の恋人さんとゲームってあんまりしたことない気がする。ゲームをするような人と付き合ってなかったからか。

 

まぁ買ってもすぐ飽きそうだが、トルネコ3という廃人ゲームはもう1回やりたいな。セーブができなくて1回死んだらまた最初からという鬼畜ダンジョンがあって人生味がある。

 

現実的な人生というゲームで言うと、余計に気付くってメリットよりデメリットの方が多そう。譲ってしまうし、行動のテンポが遅れてしまう。気付いてもスルーするには胆力という余計なエネルギー消費がある。

 

 

明日は休みなのだが、1日しかないから平日の所作。鶏もも肉を大きめにきって塩コショウだけで味付けしたメインと、昨日作った茄子の浅漬け、届いた方ではなく買ってあった残りのピーマンをレンチン胡麻和えを副菜に、カットされているミックスサラダ。里芋は明日取り掛かる。

 

そういえば、宵顔さんのニッキが一週間分更新されていた。僕の好きな文体味がありもしかして自分の昔の小説を編集した影響なのかと想像する次第。全くそんなことはないのかもしれないが、「楽しい生活」を叙述する義務感みたいなものが薄れた感じがしないでもない。知らんけど。

 

 

さておき。

 

アダルトチルドレンていすとなのか、感じやすい人なのか、気付く人なのか。どれが要因なのか分からないが、自分が動かなければ恙ないだろうということに対してアクションを起こしにくいというのがある。1人で動くときは自分の勝手で動けるのに。

 

なんの話なのかというと、突発的な休み交渉を現実化したということ。なんだかもうわらけるくらいに休みが集中していて、こりゃあ無理だろうなと予測を立てていたのだが、言ってみないと自分にとって現象化されないよなと思い、完全に駄目もとでアクションを起こした。

 

 

もちろん想定通り、駄目だった。上司にごめんと言われたが、無理を言っているのは分かっている。それでも悲しかったのは確か。宵顔さんとはことごとくタイミングが合わない。この前の文学フリマもピンポントで試験日だったし。

 

ただ、駄目もとでアクションを起こすという経験値は得た。個人的にはここが最重要ポイントで、成功しそうでないアクションを現実的に起こせる(勝手に動ける)ということはとても大事。普段そういうことは全くしない人物だからそこを汲み取ってもらえるかという予測もあったのだが、それほどのものではなかったらしい。ここもこれで良い。

 

こういう些細なことで人の現実は変わる。世界(社会)に対して力を抜くことが実践できる奴になった。これは揺るぎない人格を持っている人に取っては当たり前のことだから褒めるようなことではないが、個人的には進歩でしかない。

 

これでこの先にも進める。

 

縁の話。たしかに宵顔さんとはタイミングが全然合わないから、縁がないという評価をしてきた。スピリチュアルでもないが、人生には必要なことが起こるという現象は割と信じている。ただ、これは意識の成長段階でいうところの、意味があると意識できる現象(シンクロニシティ)でしかない。

 

たしかにこの意味での共時性も大事だが、共時性だって意志でそこに流れるか流れないかを選択できる対象と考えると、世界の意味合いが若干変わってくる。縁がない対象を想うのにも意味がある。

 

今更そんなことしないが、宵顔さんにもこの日は、この日はと無数にアポを取っていけばいずれ会えるかもしれない。そこまでして会いたくないのは、相手にとって煩わしいところと、僕の方もアポを取る時点で時間の流れが変わるからあまりやりたくないところと。

 

で、文学フリマの次の日に休みが取れなかったことって、直にお誘いのアクション取れない理由になるのかということをよくよく考えると、んなことはないなと。

 

年中無休で夜の時間に、お風呂に浸かりながら読書(約1時間)、ご飯を食べながら日記を書く(約2時間弱)、平日にはこの間にお弁当を作る(30分まで)ということをやっている。うごうご書いている日記が昨日で410本。他人がやっていたらすげーなとなるが、僕なので凄くもなんともない。

 

で、この優先順位を不等号で表わすと、読書>文章>お弁当になる。読書は休日だから日中に済ませられるとして、お弁当をやめれば、夜ご飯はどうとでもなる。別にお弁当作るために生きている訳でもないし。文章は読者さんの精神的ご飯味もあるが、あってもなくても良いから美味しいのであって(いや、ゲテモノ好きなのかもしれない笑)、作り手が義務化するものではない。

 

要は、僕が毎日こなしている夜の時間は予備というか基礎代謝みたいな他に自発的に転用できるようなものでしかない。フットワークを軽くするためのトレーニング。宵顔さんの下りだと、僕が自分の時間を自発的に変えない限り会える可能性さえない人なのかもという感じ。それはそれで良い。

 

んで、当日のことだが、弁当とお風呂をやめてシャワーに変えるだけで、1人居酒屋ルートは普通にありうる(まだ営業しているか調べてないが)。ついでにご馳走するルートもこのご時世では8時までだし問題ないし、ちゅーはい3本ルートも全然いける。

 

そう、基本的に世界の不自由性って、だいたいは自分が閉じているだけ。

 

まだまだ面白くできるじゃないか。

 

やれやれ。

 

言葉ってなんだろうなと同じくらいに自分の解放感が気になる。

 

BGMで、「大人と子供の区別を付けたがる」というのがあった。僕は学問を読むにつけ、完成された大人の人格ってフィクションなんだろうなと思っていてなんだかほっとした。たしかに経年としての大人になったら完成するのであれば、犯罪は起こらないし、判断が完璧にできるようになる。おそらオトナ感というモードの話なのだろうな。親になればオトナモードにならないといけないし、若者に対しては自分が足りているというモードにならないといけない。

 

一応社会的に未成年は未成熟とされていて、守るという名目で制限をかけているが、どんなオトナもだいたいは感性の全盛期は未成年の頃としているのではなかろうか。守るべきはオトナの安心(感)でなくコドモの安全なんだよな。

 

オトナモードをやめて、きちんとオトナの理屈を説明できる人って居るのだろうか。我が家の母親、子供は無知だという観念だから、未だに割と無知に振る舞っているが、なんで無知にしないといけないのかというと、自分もそんなに知らないからなんだよな。

 

全部知ってから教育するなんて無理ゲーなことは分かっている。

 

怒りについての本を読んだのだが、怒りは当人にとってブレーキにしかならないみたいなことだった。たしかに、怒って向上する現実ってないな。澱みが溜まって怒りが生まれる。

 

要は、澱みを生ませる対象としての自分を赦すか、その他人と離れないといけない。

 

呟きみたいになってきたのでここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。