あらかると

 

 

誰かとえろいことになり途中で生々しくなってやめるという夢を見た。明るいところでするのはフィクションだけで良い。性嫌悪ではないが、最中に寝るというやらかしを思い出す。一生忘れないと言っていたが、本当にまだ覚えているのだろうか。もはや聞く術も聞く気もないが。

 

性嫌悪思想の人って理性が重いのかもしれないな。たしかにそういう目で見れば不衛生なことではある。これを特別な人にだけ解除するために恋愛感情があるのだとすると、なかなか理に適っている。不貞行為への嫌悪感も生理的な衛生感覚と繋がっていそうだし。清潔感が好感を持たれるというのも然りなのか。

 

いったい何の話だ。という冒頭。

いや、しかしこういうことばかり(下世話なことだけではない)考えている気がする。まぁ良いのだが。

 

浦島太郎についての考察を読んだ。童話というものは何処で読んだか発掘できないくらい今や昔のことだが、なんとなく染み込んでいる。ただ、読んで気付いたが、僕は何かの教訓があるものだとして童話を読んでいないらしい。正直者は得をする(したきりすずめ、おむすびころりん?)みたいな分かり易い話はあるが、分かり易い話ですら、自分事として現実には持ち帰っていない。

 

教訓は童話より、ちゃんと現実で得た方が良い。こうしたらああなるみたいなことはその人の性質なり人格なりの存在によるから、同じことをして同じ結果になるということにはならない。この自分事の経験値の方が抽象的な誰にも当てはまりそうな教訓より役に立つ。

 

浦島太郎も変な話だが、童話って他にも変な話多いよな。一寸法師とか金太郎とか。どちらも武士として成功するんだっけ。浦島太郎を改めて考えると、時間の流れが違う異世界って、神隠しとか宇宙人に誘拐された感がある。本当にそういうことを語った誰かが居るのか、創造の賜物なのかだが、実際に現代世界でも行方不明者って一定数居るのだよな。帰ってきた人も。

 

何らかの真理が含まれているのだとするとなかなか恐ろしい寓話だ。なんらかの教訓があるから残ってきたのではなく、異世界の不可解さ不気味さによるのではという考察。この点、グリム童話ととかは当時の社会のグロテスクさが際立っている感。可愛らしい物語の中に怨嗟がある。原典のシンデレラの最後で、叔母に鉄の靴を履かせて火を炊いた鉄板の上で踊らせるのではなかったっけ。何か混じっているかも。

 

さておき。

 

物理的な朝ごはんは、納豆、梅干しご飯と、大根と人参とワカメの味噌汁、目玉焼き。お昼はコンビニに行ったら無性にカレーが食べたいようだったため、これとツナサラダにした。夜は予定通り里芋。茹でて白だししらすで和えただけだが、食感が記憶よりやや固い。もっとねっとりしたイメージだった。ただ、これくらいがちょうど良いのかも。それに食材として甘味があんまりないから、結構良い感じ。記憶の中では甘い煮物の食材だったから、甘いものだとイメージされていた。かぼちゃとかと同系列。むしろ長芋と近い。調理もそんなに面倒ではないから、問題なく使える。これでポテトサラダ作ったらジャガイモベースよりあっさりしているかも。

 

しかし、さつま芋は、、、、何にしたら良いのだ。甘味を食べる時間は常備してないし、そのために調理時間を消費するとか、げんなりする。

 

 

精神のご飯としての物語の話。物語から教訓を得ようとすることって、ご飯をカロリーとか栄養表示だけで捉えようとするのに似ているとふと思う。いや大事だとは思うが、ほんとに大事なのは趣味であって、ここは一般化できない当人だけのもの。

 

人の心が見える女の子の漫画を読んだ。僕はこういう系列の物語は結構好きらしい。サトラレも上手い設定だと思う。この漫画では、思考していることがビジュアル化されるのだが、その像は読み手の女の子が映像化しているとかなんとか。

 

ここで1つの考察。人の考えていることが分かるような超能力を持ちたいか、あるいは持ったら有効活用できるか。

 

色々考えたところ、僕はこの能力があろうがなかろうがたぶん変わらないと思った。まず人が考えていること(心の声)って、その人の存在においてそんなに重要ではない。よほどの悪意がある人を避けるという意味では便利かもしれないが、日常生活上の関係では全然役に立たない。

 

心の声ってよほど意識して考えていないと、現象に対する反射的なものばかりだろうし、その機微に合わせることが正解とは限らない。現実化しない領域の頭の中はかなり流動的であって、思っていることが本心であるというのはなにかのバイアスなんだよな。

 

仮に本心だったとして、現象化されないものという意味では、しぐさとか所作とか表情から読み取られるその人の存在とあまり変わらない。

 

僕はここで割と忠実に自分の心の声を現象として可視化しているが、だからと言ってこれを存在として信じられるかは別のことだと思われる。

 

要は、心の声が聞けるとか、思ったことが映像として見えるという能力は相手の機微を読み取れる普通の能力の延長でしかなく、煩わしくなるだけろうだろうなということ。情報が増えると選択にその分エネルギーが消費される。

 

買い物と同じ。個人的にはこの判断が楽しくなってきているから情報は増えても良いんだが、結局現象になるのはある瞬間では自分の中の1個でしかない。他人も同じと考えると、何を持って存在としたら良いんだろうな。

 

どうでも良いが、お昼にコンビニに行くときに、1人1宇宙の話ができるような人でないと近しくはなれないだろうなと思って、例えば職場でそういう話できるのか? いやできねぇ。創造的な職場でないしとなり、少し残念な気分になった。

 

もう1つ続けて読んだのが、「不能犯」という漫画。これは刑法上の概念で、可罰的な未遂犯と不可罰の不能犯という分け方で、分かれ目は行為に現実的な犯罪結果を生じさせる可能性があるのか。刑法は常識的な悪いことを追及している学問だが、現実というより哲学の範疇だと思う。それくらい悪いことが観念的なところにあるということ。

 

あぁこの漫画の殺害方法。1例だと刺したら刃が引っ込むおもちゃのナイフを本物と思い込ませる暗示というかマインドコントロール。思い込みによって世界が破滅する人達がいっぱい出てくるという味わいで言えば、「笑うセールスマン」に似ている。

 

ただ、真面目に考えると、人はどこかしら思い込まないと生きていけない。認知バイアスとか当たり前の概念だし、人が現実だとしている像はどうしたって真実とは一致しなくて、何かが真実であると信仰しながら生きている。

 

だから、人は動物の群れとは別の意味で群れたがるのだろうな。「考える身体」で、人は群衆に居ることで安心できるというのは、自分が見ている世界が自分の思い込みでないという証明があるから。

 

僕は群衆の中で居ると不安でしょうがないというか、当てられて疲れる。でも、これって、自分が客観的に強固な存在だとしている訳ではなく、どこまでいっても思い込みでしかないということを知ってしまったからなのだろうな。

 

誰かに対する僕という現象はきっとその人の中で思い込みとして形成されるし、そこで心地良い人を選ぶしかないし、それで良いのだな。

 

いや、僕は現実では礼儀正しく無害な紳士でしかない。(誇張)

 

現象的人物でいうところの、悪い意味で目につく人の共通項がなんとなく分かってしまった。注意深く存在していない人。同期の歩き方がとても目につく。たぶん他人の目というのを意識していない。まぁそんなの見ている人も居ないだろうが。そういえば、僕を安全な人として折に触れて盾にしようとするのもなんだか嫌だったな。

 

無害で安全な人物をどう扱うかの方が心の声よりよほどその人が分かる。

無害なお店の店員に高圧的になれる人ってその時点でだいたいアウトよな。

 

そういえば、「熱帯」読み終わってしまった。

ある意味寓話みたいな小説。世界がループしている。まぁ森見さんの原点の四畳半神話大系世界線が分岐してループする話だったから、あんまり変わってないのか。

 

美味しかった。ごちそうさまでした。

 

この話は、なんというか存在のあやふやさが語られている。

自分は物語の登場人物でしかないのではないのではないかという不安感。

 

物語の中の物語の登場人物が、生き続けたいと言う。

ここでの「生きる」は語られるということ。

 

「生きる」あるいは「生きている」ってどうしたものか。

人間には精神があるから、物理的生存を保続したところで満足できない。

 

僕は存在しているとすることでここは解消したが、他人によって語られることが存在であるとするという観念も分かる。記憶に残らないといけないといけないってそういうことなのかな。

 

まぁ、生きるためには死なないようにしないといけない訳だが、死なない為に死んだように生きるのもなんだか違うような。

 

人間という観念が生まれた原初から、そのために芸術が在るというのはなかなか感慨深い。

娯楽は時間潰しだが、芸術は自身を識る現象。知らんけど。

 

思い込みの中で生きられるのであればそれで良いが、僕はどこまで思い込みなのかということが気になる。

 

おやすみなさい。

 

良い宇宙を。