おともだち

 

 

よく寝たはずなのに隈が凄い。いっぱい夢を見たから眠りが浅かったのだろうか。

 

炭鉱のような真っ暗なトンネルの中に線路がいくつか通っていて、真っ黒な汽車が通り過ぎているのを見て、これは地獄行きなのだと思った。トンネルを越えて仕事のために集合したら、皆同じ型の長靴なのに僕だけ裸足。シーンが変わるとダーツで遊んでいた。知らない人ばかり出てきたような感じ。

 

そういえば、日曜日は雨の可能性があるみたい。悉く狭めてくる世界線。1人外で飲めないじゃあないか。でも表紙を見た感じ、雨とも合いそうかも。それはそれで良い。

 

仕事は相変わらず雑談が酷い。僕が休めなかった月曜日に有給をとった先輩男子はゆうゆうと昼ご飯を象印食堂で食べるらしい。いやこの下りはただののほほんだが、全体的に集合的意識にまどろんでいるなぁという感じがする。

 

集合的無意識の概念を初めて知ったときは、うごうごした普遍的な精神の一致した根があるのだと捉えたものだが、今や違う。メディア論で文字の発明が人を集合的無意識のまどろみから個人として引きはがしたという下りがあり、なるほど。単に意識も思考もできない当たり前の世界観の共通項(雰囲気)くらいの意味合いでしかないのか。ここでいう文字と認知バイアスの観念は似ている。思い込んでいる人は自分が思い込んでいると気付けない。

 

こう考えていくと、「書物」が禁制化される時代も理に適う。時代が醸す雰囲気に揺蕩っていてもらった方がコントロールしやすい。比較的最近の小説だと図書館戦争が分かり易い。書物は人によっては武装してまで守る価値があるもの。

 

テレビも集合的無意識を醸成するためのメディアとしては画期的な発明だったのだろうな。僕はこういうのに反発しているというより、単につまらないだけなのだろうなという感じ。その時間はきちんと自分で意志したことに充てたい。

 

読書についての方は見つけたらぱらぱらめくるのだが、本日読んだ本は、読書はじっくり読むよりも飛ばし読みをして繰り返す方が残るということを言っていた。小説ならじっくりシーンに浸りながら読むのが良いが、情報としての本は学校で教わった教科書の読み進め方では残らない。学校のはカリキュラム上の制約があるから仕方ないが、これは情報の採り入れ方として正しくないとも言えないよな。権威上の制約として。

 

「熱帯」の次の本だが、下が濃厚な味わいを欲していたため文庫本ではなくハードカバーにした。カズオさん(イシグロさん)の新刊。ちょうど「AIは人を憎まない」も2周目に入ったし。

 

この人の本は2つ目だが、物語の世界に引き込むのが上手いと思う。筆致としては敬語で淡々と書かれていて、冒頭を読んでいると、何の話なのだとなるが、すぐおもちゃのAIが世界を学習しながらショーウィンドーに並んで買い手を待っているシーンだと分かる。AFという略称は出てくるのだが、正式名称はまだ出てきていない。おそらくArtificial Friend なのではという予測。直訳したら人工友人でかなりメカニックだが、AIでいうところの人工のニュアンスもなんかズレている感じ。人工だと工作とか製造感だが、人の手で造られるのは工作的なものがあるが創造的なものあるし。

 

僕が訳すならなんだろうな。「友達になろう」みたいな? 

学習してどんどん仲良くなっていきますよって。

 

まさか新しい精神的ご飯で友達が出てくるとは思わなかったが、まぁ共時性は仕方がない。

 

時は遡り、今朝。

現代は占星術的に言うと「みずがめ座の時代」らしいということを見かけた。新しいことが産まれることに伴う混沌。何かどこかで見たことあるなと思って、石井ゆかりさんで調べてみたのだが、そういう記述は見当たらず、なんとなく自分の星座で調べたところ、僕の星座である牡羊座の2021年は「友達の年」らしい。

 

友との再会みたいなことが書かれていた。日記を読み返せば分かる(読み返さないが)。たしかに懐かしさの観念が良く起こっている。ただ、僕にとっての友って、別に一緒に何かをする、対話が続いている場の共有みたいな観念ではない。これも石井さんが書いていた。社会的繋がりで友になった人は関係がなくなると自然消滅するが時代が変わったことで、社会的な繋がりとは別の関係が生まれるとか。

 

場の話が面白かった。新たな「場」に参加することになるらしい。属するのではなく。その場は「参加と退場が任意」、「上下関係がない、あるいは薄い」とか諸々条件があるのだが、たしかに僕はそういう場に存在していると思う。まぁ、石井さんが想定しているより遥かに物理的な空間からは離れているが。笑

 

いやはや、面白いな。

 

完全な孤独は自由にはならないとか、人として尊敬できる人に惹かれるとか、うむうむとなる。僕はたぶん1人で本の妖怪になって問題ないのだが、ここで書き綴ることも楽しんでいる。それは、楽しんで読んでいることが伝わなくもないから。感想文とかではなく。

 

宵顔さんに対しても、ナチュラルな尊敬があるのだよな。なんでだ、言語化できるのかと自分に問うたところでよく分からない。常識で考えたら単に完全にスルーされているだけだし。笑

 

で、友の概念の更新。

僕は割と通常形態で他人のことは尊重しているし、正の方向で捉えることが多いのだが、これはあくまで一方通行でしかない。この正の方向に乗っかって僕のことを使用する人は社会的関係として近しくあっても友ではない。

 

あと、僕は創造的な仕事をしている人に無条件の畏怖を感じるのだが、具体的に尊敬するかどうかとなると人によるらしい。趣味の領域。美学で書かれていたのだが、趣味には判断が伴うとのこと。自分の中でこの味はどうなのかを分ける意志。

 

要は、僕の存在を何処まで捉えてくれるのかに双方向が芽生えるのではというところ。見る人が見れば変哲もない落伍者だったり、単に毎日長文を綴っている変人だったりだが、受け入れてくれるかどうか。ここでいう、受け入れるは単に他人として承認するではなく、相手の存在によって自分が変化することを許容すること。普通は社会的関係という外から来るものでしか変化しないのに。

 

石井さん曰く来年はもっと凄いことになるらしい。

蓄積してきたものが開花するとかなんとか。

 

まぁ、今で十分面白いけどな。

自分の心を乱すどうでも良い他人より、友のことを想えば良い。

 

認識が変わるだけでは当人はほんとうの意味では変化しない。結局は何をするかという現象による。これは自戒もあって、日曜日の夜にお弁当を作る時間がないと予測されるのであれば、土曜日の夜とか日曜日の昼とかに余計に作っておけば良いだけなのだよなと、また1つバイアスが覆る。僕が一番避けたいのは、平日のビジネス街の昼休憩でご飯を買うために並ぶ無為な時間。常備菜が捗ってしまう予感。

 

バイアスで言えば、僕に創造性がないというのも無駄な思い込みであって、なんでもきちんとまずはやってみたら良いよな。僕は自分を無駄に過小評価するきらいがあるからそこもやめていきたい。

 

自由って、孤独とかではなく、自分だと思い込んでいることを辞めて動くことなのかもな。

あと、自分の趣味を信じること。

 

まだまだだわ。

 

という感じでおやすみなさい。

 

また明日。