本体

 

 

前の日記に書いた宇宙の条件に照らすと文も宇宙の創造に似ている。

全部同じようなもの。

 

 

穏やかな晴天。早朝に150円だけ持って自販機にカルピスを買いに行く。100円玉が落ちてどこに行ったか分からなくなり断念。この自販機には1100円吸われている。しょうがないかと帰りながらアサガオ氏にご挨拶。心なしか減ってきているかも。牛乳を飲んで二度寝した。

 

朝ごはんは予告通り、小松菜の雑炊。豆苗が残っていたから入れてみて最後に溶き卵を加える。味付けは昆布茶、かつおだし、生姜チューブ、ちょっとだけ醤油。上出来(撮るの忘れた)。昼は冷凍していた豚ロースと玉ねぎ、ピーマンの豚丼。やはりどれも時間はほとんどかからない。かかるのはエネルギーだが、カロリーというよりは意志であり、ここもあまり消費しなくなっている。

 

夜は残っていたごぼうを消費。買ってきたちくわと乾燥エビを加え七味唐辛子、醤油、砂糖、ごま油。料理酒がなかったためビールで代用するキッチンドランカー。いや、料理中は飲んでいないが。メインは塩コショウポッカレモンで下味つけて小麦粉をまぶした鶏むね肉と玉ねぎとピーマン、万願寺唐辛子のポン酢ケチャップ炒め。特に言うところはない。

 

 

ちょっと落ち着こうと思い、かいせつ作業は小休止。本買ってひと通り何ができるか読んでからにしようと。自分の場だからじっくり整えるつもり。今月中に始められればそれで良いかな。

 

テニス漫画を大人買い。スポーツ選手のメンタルの整え方と、人生上のメンタルの整え方はなんだか似ている。「人は期待したいしされたい」とか。たしかに現実=結果主義で考えれば、期待したことが現実化される、期待されたことを現実化することを目的に設定するというのはとても分かりやすい。スポーツ選手はこれが完全に可視化された仕事といえるし、日常的な感覚とも近そう。

 

僕はこんなのごめん被るのだが、この漫画はとても好き。なんでごめん被るかというと、僕は自他において結果だけを見ている訳ではないから、世界に対して明確に期待できないし、明確に期待されるとむしろエネルギーがしぼむ。これって駄目人間と紙一重のメンタルで、実際わりとポンコツ。自分の現実化に対してだったら期待する前に動くという意味ではまぁまぁフットワークが軽いが、別に明確な目標をもって動いている訳でもなく。

 

そういえば、kindleの集中力の本を通した。集中力には4種類あって、一般的に言われている集中力は「入門集中」だと書かれている。なかなか良きネーミング。

 

4種というのは、内・外×狭く・広くの掛け合わせ。外に狭いのが一般的な入門集中で、外に広く集中した状態が俯瞰集中だったかな、内側に対するネーミングは残っていないが、対話モード(狭)とアイデアが生まれるモード(広)だったかな。

 

個人的に集中と呼ばれる状態があるのは当然知っているが、個人的にあまり使いたくない言葉だったのが何故か分かった。一般語用では集中の全部をカバーしていなかったから。ただ、集中という言葉だけでしか捉えられない状態なのかというと少し疑問。

 

これを踏まえて自己分析。

 

外に狭くという集中力は乏しかった。落ち着きがないってずっと言われてきたし、机に長時間居るというのもなかなかできなかった。院試のときは毎日図書館で12時間くらいはインプットしていたからできなくはなくなった。

 

ただ、この外に狭くという集中って、残らないのだよな。外を外しか捉えないから、無意識の方にはある程度記録されるとしても、意識化できるところにはならない。できるようにするためには、内側に向いた集中とセットに稼働しないといけない。でも内側への集中って狭かろうが広かろうが無軌道だから、下手すると不真面目になる。外の対象と離れて推論とか抽象的な共通項を探すのだから、別のことを考えていると思われるという意味。

 

そうして、外に広くの俯瞰集中は、もともと人間に備わっている外界に対する注意という本能の機能とのこと。これの為には自然に身を置くのが良いとか。とっくにやっていた。笑

 

外に狭くの集中で何か新しいことに気付くことは難しい。

 

もう少し細かくする。

脳内ホルモンによって変わってくるらしい。ノルアドレナリンドーパミンとエンドルフィン、は違ったか。要は緊張による集中と安心による集中は違うということ。外に狭くへの集中は主に緊張から生じる。個人的には自然の危険に触れることは外への広い注意もセットだと思うが。

 

内側への集中は心理的安全が必須というのは分かる。僕は中学くらいまでは内側にも集中できていたと思うが、高校以降は机に座っている時間=勉強みたいなことになり、外への集中しか許されなくなった感。

 

昔語りはどうでも良いが、進行形で頭の中がすっきりしたのは、この心理的安全が確立してきたからだと思った。ネガティブバイアス的な言葉もほとんど出てこない。内側に意識を向けると、余計なことばかり考えて堂々巡りすると書かれていた。堂々巡りも良いことらしい。まだ内側に浸透していないから堂々巡りするのだとのこと。たしかにバイアスでないネガティブな堂々巡りはあるな。情報が更新されない限りは仕方ないか。

 

とりあえず、集中ではないとされていた状態が集中の一種だということが知れて良かった。

僕は常にやんわり外に広く集中している。ただ、これって意識をどこまで張り巡らせているかの方が適切な言葉な気もする。

 

集中と呼ばれているものはおそらく対象をどこまで注意しているか、ひいては意識できているかであって、意識できるためには、意識の起こりを見ようとしないといけない。ここは言語ではない、感じ。この感じを意識できれば人が言葉で考えていないということが分かる。

 

これは刑法だが、人の意思決定は仮説でしかないというのも似ている。社会的ルール上、人を傷つけてはいけないのだから、そういう行動を決定する前にルールを意識して行動すべきなのにそれをせずに行動したという社会的に期待されてないことをしたことを意思決定とする。

 

行動経済学の意思決定もこの筋から見ると仮説っぽくなる。

 

こういうのが内に広くの集中。

全然関係ないことを自分なりに繋げても咎められないという安全が前提。

 

人に話すとなると、若干ぞっとする。今これを話しているでしょうって怒られそう。

だから、この場は具体的関係では成立できない。

 

やれやれ。

 

あと2つほどあるのだが、間に合うか?

検討したところ間に合いそうにない。情報の話は後回し。

 

僕にとって美味しい文とはという分析。

 

これは美学でいうところの趣味の話だから言葉で表現できるものではない。と、諦めるのは簡単だが、表現できないことを語ることができるのも言葉。

 

夏目さんの「硝子戸の中」で、文筆家志望らしき女性が夏目さんに自分が書いた文章を持ってきて評価して欲しいというエピソードがあった。夏目さんは、私は剥き出しの自分で接するので、貴方も自分に対して開かないといけないと言う。たしかに夏目さんの文体は正直な感じがある。他意がないという訳でもないし技巧も駆使しているのだろうが、嘘がない。

 

いや、適切な言葉を当てるのであれば、「無理がない」かな。

無理がない文章は余裕があるから、「どう読まれるか」にも配慮がある。どれだけ伝えたいことがあったとしてもそれは伝わらないと意味がないのだから、伝わるように整えないといけない。ということが念頭にあるという味がする文体は美味しい。

 

最終的には好みだが、手っ取り早い同情とか感動を題材としている時点でだめなのかも。

いや、むかーしセカチューとかディープラブで泣いたが、僕の腎臓だっけ、は泣けなかった。

 

僕が自分の中でだけの文章を書けないのはそういうことで、自分の中でだけに留めるのであれば言葉でなくても在るから。外にどこまで現象化できるかが気になっている。

 

もともと伝えたいことがなく継続しているだけとしているのだが、最終的にしたいことは言葉による表現だという予想がされている。自分がしたいことを気付かないように生きてきたから面倒くさいが、文章を書くことに没頭することがとても楽しい訳。それ自体が目的だったら、改行とかも整えなくて良いはず。

 

はい、ここまで。

 

私信もいつまで送れることやら。

 

おやすみなさい。

 

集中して生きられますように。