直感

 

 

 

引き続き内側が無口な日。これは本当に内向きなのだろうか。雑音なくニュートラルに世界を捉えることは外向きの極致ともいえる。人間の精神を自然と同じように見るのであれば、何事もなくても揺れ動くのは摂理。なるほど、他の人もそういう感じであって、別に確固とした人格ではないのか、と、また1つ緩くなる。人の人格だとみなしている部分は中央値でしかないのかもしれない、いや、最頻値か。

 

仕事。先輩男子が今週まるまる体調の不良ではなく精神の不調で休んだ。精神的に不安定な人な感じはしていた。どうしたことかと思わず女性上司に聞いてしまった。いつも仲良さげに雑談していたこの人もよくわからないらしく、普通だったよね。と聞かれて、見た感じはいつも通りでしたねと答える。硯君が言うならそうなのだろうって言われてぎょっとなった。いや、僕は眺めているだけだし、見解を発話したこともないような。

 

外向きで安定を得る人にとっては辛い時代なのかもなと思うが、ニュートラルであることに向き合う時代なのかもしれない。僕は水を得た魚みたいになっている。人は物体とか物理とかとは別にも生きているのがよく見える時代。何が大事かを空気ではなく自分で決められる。

 

 

そういえば、昨日は宵顔さんへの私信を書いている途中に消した。送りたくないとかそういう感じではないが、なんとなく。あえて言語化してみるなら、これ以上ここで書いても堂々巡りにしかならないなと。

 

昼休みには漫画の舌ではなかったため、kindle本を1冊賞味。「直感を磨く」というビジネスコンサルタントの人が書いた本。なかなかのうま味。直感とは無意識からの未来予告だというのはとても分かる。だから、無意識に開いていないと直観は働かず、無意識を開くためには、自分が構築してきた無意識に問いかけをしないといけないとか。

 

人はまず相手を視覚情報の直感で判断する。だから身だしなみはある程度きちんとしていた方が良い。これも分かるが、なんとなく直感としては浅いところ。第一印象はだいたい当たると言うが、かなり顕在意識=経験則寄りだと思う。要は身ぎれいにしていたり所作が整っている人に対して、自分もそういう風に扱ってくれるという予測値。

 

例えば、僕も人のこと言えないが先生のYシャツは結構よれよれ。でも、信用できるし人の発言も大事に聞く人。見た目からは読めない。

 

人に対する直感は、働いたとしてもタイミングとか諸々があるからなんとも言えない。結婚するかどうか迷ったときは、最初にその人を見てどう感じたかを振り返るのも分かるし、広い意味で運命の人の言説も分かる。ただ、自分に影響を与える人を運命の人だと捉えるのであれば、自分の人生で会った人会う人全部運命の人なのでは。影響が全くない人って居るのか。無意識の深層レベルで言えば、波長で自分は動くし。

 

集合的無意識シンクロニシティみたいなことも書かれていた。集合的無意識は人類の英知と繋がっているから、最適解を出してくれるし、必要な時に必要な事象が起こるとか。

 

これが何故起こるかを考えると、魂みたいな話になる。DNAみたいな生物学的連鎖ではなく、精神的連鎖で、人の精神は五官で感知できない何かを感得できる能力があるということ。無意識は脳の作用の一種だが、おそらく脳のもともとの機能では想定されていなかったもの。

 

別に宗教的な話ではない。もっと現実的な現象。ここで、人間だけが集団行動ができるという「考える身体」。チンパンジーとかゴリラでも群れることはできるが、スタジアムに何万人も収容して観戦するということはできない。ルールが決まっていてそれを理解できるからでは済まされない、他人と同化できる能力が示唆されている。識字とかもそうよな。

 

自我の起こりもこういう集団的無意識からだとすれば、あってないようなとても曖昧なものでしかない。

 

「直感を磨く」で、直感と衝動は違うという話があった。直感は無意識からくる引っ掛かりでだいたい行動すればオーケーだが、衝動はエゴの感情からきていて、他人をないがしろにするようなことに従うと自分に返ってくるのだとか。分かるようで分からないぼやっとした見解。まぁ、顕在意識で思考して出す答えよりも直感の方が正しいのは分かる。感情なり衝動も肉体に根差した波長の揺らぎでしかないとすれば確かに。

 

抽象的になっているから、具体的な話にしてみる。

いや、あんまり書きたくないらしい。拒否するの面白いな。それほど独り占めしたいのか、したいのだろうな。

 

ここはスルーして。

 

僕にとっての直感は、無意識を顕在かしようとしてきたことにより、目に留まるという日常的なもの。「何もしない」は立ち読みしたところ縁がなかった。一般的な啓発本はもはや読んでも仕方がなさそう。

 

直観はニュートラルであるときにしか働かないとのことだが、今日が人生上一番ニュートラルだと思う。

 

明日というか今日だが、起きた後に何処かには行く。仕事中に地図を眺めていて、比叡山高野山、古墳、とは別に、京都の丸善にも直感が振れていて大変。直感上はどこに行っても楽しいから、改めて主観で決断しろよと提示されている。選び放題遊び放題。

 

 

最後。

 

発話ではない「書かれた文」って、基本的に人にとって不自然なのだろうな。発話の代用品として遣われている感。文字でも表現できるのだが、本当は発話で表現したい、みたいな。

 

自分の文章を発話の代用品として扱っていないということがやっと分かった。

僕の日記で書かれていることは発話化できない。こういう文でしか表現できないところでまだ掘り下げたいのだろうな。

 

僕が好きな文体もそういうことなのかもしれない。

 

はいおしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。