あげてもなくならないもの

 

 

ゴミを出すついでにお月様にご挨拶。斜め半分のご尊顔が眩し過ぎてぼやけている。

 

 

あっという間の木曜日終了。今朝は田んぼにかかったネットを外しているのを見かけて、遂にきたかとなったのだが、帰りに見るとまだ街の明かりに生える黄金色の絨毯だった。今週末にやっつけるつもりなのかな。

 

 

意識し続けていると時間はこんなものなのかとよく分からない流れを実感している。いつの間にか一日が終わっているなんてことはなく、きちんと残っている。夢中ではなく今何をしているかを意識的に観測する。帰宅した後もわりと分単位のタスク。もうちょっと削った方がよいだろう本能由来のタスクはあるが、どうなのだろうな。

 

本日は帰宅してすぐに服を脱ぎ洗濯機を回す。土曜日にそろそろ京都でぼーっとしようと思っているため、あんまり溜めるといけない。パンイチでお弁当箱を片して買ってきた食材を冷蔵庫にしまい、そこから、民法を手動でエクセルに落とす作業をする。請負の項目が終わり、次が委任。会社法も5分程読み、云々。

 

まぁ僕の日々のタスク処理はどうでもよいか。しかしながら、今晩もご飯が美味しい。メインが特に。豚ロースが残っていて、昨日はねぎ塩ダレみたいな炒め物を作ったが、本日は蒸すことにした。残っているねぎと、買ってきた春菊。春菊が100円なのはとても珍しい。安定して安かったらもっと使いたいところ。ロース、ねぎ、ろーす、ネギ、とミルフィーユにして、最後に春菊をどっさり。最初の層に胡椒、途中の層にコンソメ顆粒をまぶし、料理酒をふりかけてレンチン3分。終わったら少し混ぜてオリーブオイルと白だしを加え、お弁当用だから多めに追加レンチン2分。初めての組み合わせだが、上々。

 

ネギはとろっとしていて春菊の苦みも和らぎ、白だしのキツさもレンチンで優しくなった。

 

料理も決めなくなってきたな。僕のコンセプトは「何が入っているか分からないのに美味しい」。調味料の調和が楽しい。

 

どういう料理を作りたかったかに近づきつつある。

名前の無いただの美味しいもの。

 

 

「思考のすごい力」、ほんとに信じたこと(信念)は現実になるという話があり、僕はどういう人物になりたかったのかというのを振り返ると、これも概ね近づいているところはある。

 

僕は優しい人ではなく賢い人になりたかった。優しいは良く評価される言葉だったが、これは「お人好し」とか「無難」みたいなニュアンスが隠れているし、守るべきものがないという性質のせいなだけだった。僕は譲りまくる人だった。

 

今は、この自分時間のハードルを越えるくらいの存在でないと関係できないとした。つまり、優しくなくなっている。これもなりたい自分。

 

別に優しさと賢さが対極にあるわけではない。たまたま思い付いたから並べただけ。一般的な賢さは「何でも知っている」という積み上げ方式かと思う。僕がなりたかった賢さはそうではなくて、「無知の知」に近く、自分が積み上げてきたものよりより良いものがあれば鞍替えできること。認識の上限を決めないから立場で人を見ない。

 

繰り返される無変化とされる日常も認識の更新の宝庫でしかないことを認識できるようになったのがまず1つ。

 

あとは、自分の為に世界を見ないこと。日本の一般常識においてまじまじ見ることってマナー違反なのだが、これは観察すること自体が悪とされているというか、観察するということは下心があるのだろうという根がありそうな気がする。だから、近い関係になった時にはこの観測が深くなってしかるべきとなるような感じ。

 

僕はこの価値感にずっと疑義があったのだろうな、解放すると世界がより鮮明に認識できるようになった。爪を塗っているのは女性上司だけではなかったとか、どういう風に意識してその人が世界を生きているのかは、当人の言説を聞かなくても読み取れるし、そういう風に観測して良い。答え合わせをしなくても良いし、別に悪用もしないし。

 

例えば、エレベータを待つ立ち位置で、誰かが乗っていることが意識されていないのだろうなとか。こういう視点で観ると、世界に無関心な人多すぎないかと思う。現実は五感を駆使して捉えるものだとすれば、イヤホンさして電話しながら自転車に乗っている人は現実と非現実が逆転してないかとか。無いと認識してしまうと世界にそれは無くなる。

 

以前、スピリチュアルの人にコメントを頂いたことがあって、神様の意思は識りたいであり、その為に宇宙を創ったということだった。これよく分からないなと思っていたのだが、宇宙の起こりの神話的解釈とする一定の説得力がある。そもそも宇宙の起こりは科学的な解釈があるにしても、原因が解明されていない。神様を模して人が創られたと繋げると認識によって1人1宇宙が拡がるようにできていて、宇宙が偶然生まれたという当たり前よりはなんだかしっくりくる。

 

 

当たり前の色眼鏡って為にならない。「思考のすごい力」では人は信念(フィルター)で世界を見ているとのこと。これが世界の全てなのだろうな。細胞レベルでそうなっているのだから、認知バイアス然り、行動経済学的な当たりも然り。

 

ここでいう信念は、世界はこうであるべきだという固定観念もあるだろうし、世界はこうでしかないという絶望感もあるかもしれない。

 

どうでも良いが、昨日か一昨日の話。仕事場の公園に生息している仙人(ホームレス)が、いつもは地面に座っているのに、何故かベンチに移動している行動を見てギョッとした。この人の中で何があったのだろうという注視。いつも通りでなくなった時には警戒信号が発されるのだろうと思ったが、この仙人の行動パターンが変わったところで、僕が警戒する必要は全くないのにな。

 

死に至る病」のキルケゴールさんは、もったいぶる文体。自己とは何ぞやというと自己に関係するものだとか。よく分からないが、端的に本質をついている感じはある。自己を定義するためには何かとの関係が必須。

 

自己と自我がどう違うかも微妙だが、「考える身体」で、自我は流行だというフレーズがあって、たしかになと思う。関係の中で自我を捉えるのであれば、それは自分が生きている社会と関係した自分が上限になる。

 

今売っている服も、男性は色の選択は少なく、女性はカラフルの中で選べるというかなり昔の感覚由来なのか。まぁ服は文化だし。

 

 

僕の素朴はもともと、他意が無かったのだろうな。

誰かに承認されて自分になれるみたいな感覚がなかったから、愛情不足のアダルトチルドレンみたいなところに倣ったが、だとしたら特定の誰かに怒っていて良い空気を振りまけるようにはならない。

 

関係無く人を具体的に観測できるのは現世でまぁまぁおかしいことは把握した。

それくらい人は人のことを見ていて、ただ言語化していないだけ、なんてことは無いで良い。

 

もっと他意ないように人と関係すれば良いのか。

もともと他意ないのだが、他意がないなんて無いのが当たり前とされてきた感。

 

やっと素朴で生きて良いのだという信念が芽生えたところ。

文字数上限も、僕が収集してきた常識観でしかない。

 

まだまだここから。

 

では、おやすみなさい。

 

良い開拓を。