落とす人と上げる人

 

 

 

朝の田んぼ。ちょうどちょっと刈られていた。おそらく機械が壁に当りかねない端の方は手で刈るのだろうなと推測。もう終わったのかもしれないが、帰りは電車で最寄り駅に帰ったから見ていない。お刺身と小さなスケッチブックと12色の色鉛筆と遠出用の伊坂さんの新刊文庫を買った。

 

徒歩で帰るとお月様に背中を向けるからなかなか見えづらいが、最寄り駅の方からだと正面になって良く見える。あんまりぼやけてもなかった。

 

 

さておき。

 

こうやって楽しんでいる人生を一気に引きずり降ろしてくる母親との通話。憤怒氏が喚きだす。僕は自分を守るために人を変えるということはしないスタンスだし、当人の人生だからそれで良いとしている。だから、離脱するしかない。

 

憤怒氏が喚いているのは、別に凝り固まった母親の人格に対してではなく、自分を形作った最初の環境に対する反発。これは「思考のすごい力」でちょうどそういうところが出てきた。一般的に人には3、4歳までの記憶はないが、胎児の時も含めたここまでの環境が人の無意識を決定しているというところ。

 

僕は常々この環境に疑問を抱いていたのだが、どこからそれが来たのかは不明。モデルになるような人物もいない。ついでに昨日書いた料理の理想とか賢さももともと目指す対象はなかった。哲学の最初は本の師匠が勧めてくれた「ソフィーの世界」だったのだが、それまでも自分の頭で哲学していたし。このままで大丈夫なのだなとは思えたが。

 

憤怒氏が怒っているのは、人をオプションみたいに捉えるところと、オプションがないと価値が無いという不文律が読み取れるところ。母も祖母もやたらと彼女を作ることを勧めてくるのだが、これって僕のパートナーを僕のオプションとして捉えているのだろうなと。もちろん息子や孫とまだ存在しないパートナーの価値の重さは明らかに前者なのだろうが、僕が選んだパートナーが現実に居たとき、ないがしろにするような発言されたら噴火しそうな気がする、いやするだろうな。

 

この思想を進めると、僕がパートナーを選んだ、ないし見つけたことが、僕のオプションの為と捉えられる。パートナーが居る人生観もただの今の社会における一般的幸福論でしかない訳で、そういう風に人と一緒に居ることはできない。僕が今の社会ルールとは別に一緒に居たい人と制度を使って一緒に過ごすということだけであり、その人は僕の人生のオプションではない。

 

僕が一緒に長く過ごしただけで価値を置けないのもこの反発からなのだろうな。

今恋人さん居ないのに、僕の価値の為に作れみたいに言われてイライラしたし、生まれてからずっと関係している母親に対しても特に愛着が持てない。

 

これも「思考のすごい力」にあって、人は恐怖を生じさせる環境に直面したとき、なんだかのホルモンが出てきて、思考より危機回避に備えて、ただ環境に反応するだけになる。僕がずっと頭が霧の中だったのも漠然とした恐怖感によるものであり、この環境を作ったのが母親の独裁家庭政権だった。人が外のことを残しておけるのは義務ではなく自由にそれを考えて良い場があること。そんな場は家族で過ごした家には無かった。家のことを思い出す時に人物が出てこないのはそういうこと。

 

世界の抜け道みたいな思想だが、人間が人間であるための本質は強制ではない。恐怖も怒りも、人を阻害する。僕はこのご時世に自由を感じていた異端者だから時代が時代だったら非国民とか魔法使いでつるし上げられているかも知れない。

 

恐怖を煽ってコントロールすることはほんと簡単だが、そうなると相手は人ではなくなる。

命を守る術を知らない段階だと先に恐怖を植え付けるという教育法はありだが、僕が受けていた教育法だと、ほんとの危険はあんまり教えて貰わなかった気がする。

 

まぁ、頭を回すことができるようになることがほんとに当人にって良いことなのかも分からない。思考力が活発になるということは、今までの当たり前が崩壊することを内包している訳で。

 

恐怖に制限された人生を過ごすのもありだろうと思っている。

何が出てくるか分からないし。

 

制限解除しつつある僕は、僕が最初入った頃の職場よりなんとなく良い空気になっていることを観測している。絶対誰も意識できていないと思うし、普通はそこまで場を見ていない。ついでにこんなのあるかないかの誤差だから、あまり意味はない。現実としては歯車だし他人だし、何か存在感を出している訳でもない。

 

そういえば、前の前の職場のパートさん(なんとなく美人)が、僕が居なくなって殺伐さが増したとか言っていたことがあったな。送別会辺りでLINE交換したのに、その後すぐにスマホが潰れて一切やり取りをすることはなかった。

 

何の話なのだろうな。

僕の存在は僕の自我とは無関係にどこかに場所を取っている。

 

 

ちょっと頭の体操。

 

類推適用がゲシュタルト崩壊。専門用語って当たり前になっているから素朴が意識されない。法律用語って一般語用とずれているし、概念も独自。小5くらいの社会で出てきた罪刑法定主義は何気にかっこよい語感だった。この語感からここまで来ているのかも。

 

類推適用について言語化するとやたらと長くなる。そもそも一般的な社会の法律ルールって有事でしか意識されないし、意思表示とか代理とか民法の基礎の基礎も普通に生活する上では無用の概念。こういうのって、何か争いが起こったときに、じゃあどっちが正しいのかを判断してくれお上よ、とならないと認識できない。

 

法律学はそういう仮設の中で、何が正しいのかを研究する学問だと読んでいる。だから類推適用のほんとの意味が分かるためには、この仮設のルールを認識していないと無理。

 

あるルールを前提として、他の現実的な紛争があるときに、本質に遡ったら同じことですよねとしてしまうのが類推適用。

 

ちなみに法律でよくニュースで出てくる刑法は類推適用ができないとしている。罪刑法定主義による。殺人も過失致死も人を殺すという意味では本質的に同じだから全部死刑で良いとはならない。これ言い出したら悪いことをした人は全員死刑にできることになって、国家ウハウハの独裁やり放題になる。治安維持法時代とかはそうだったのだろうな。

 

自分にとって都合が悪いことは法規制してしまえばいいと思える感覚は、平和な時代で生きているからなのだろうな。自分とは無関係とできること。法律への恐怖がない。個人を助けてくれるルールではないのに。

 

そういえば、昨日のタイトルのあげてもなくならないもの。そんなものはないとされそうだが、僕の中ではいっぱいある。祈りもそうだし、認識もそう。

 

はい、おしまい。

 

もう頭がおねむ。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。