にんしき

 

 

 

昨日まではカーディガン羽織ると暑いくらいだったのにTシャツにパーカーを重ねても肌寒い。本格的に秋ですな。気温が下がらないと紅葉も色付かないし、個人的には寒さは静かさに近くて好き。静かさにも音がある。雪が降る音とか。

 

夜が早く来るようになるとお月様とのタイミングも合いやすい。雲が少なくてなかなかの露出度。堪能させていただいた。

 

 

こんな感じで、本日はニュートラルな世界。ぼーっとしているが、世界の変化を意識している。

 

ただ、せっかくのカーディガン、洗濯ネットを使用することを失念してダメージカーディガンにしてしまったこと、外に出るときにプライベート用マスクではなく仕事用マスク(配給されている)を着用しようとする。無意識にコントールを握らせると、僕のはポンコツだから碌なことがない。

 

ここで無意識について考察。無意識は今まで脳が収集した反応パターンの束だが、ほとんどが「大丈夫だった現実的行為」なのだろうなということ。めちゃくちゃざっくりいうと、死ぬ危険がないとか、社会的立場を危うくすることも社会的な死にはなる。そういう振る舞いだから、初めてのこととか、これからのことには対応できない。「思考のすごい力」でも、無意識は現在の反応をどうするかしか見ていないと書かれていた。

 

この無意識的な行為の振る舞いは制御しようとしても駄目で、こつこつ意識するしかないのだろうな。自分の体がこれから何をしようとしているかを意識で見る。まぁ無意識にポンコツ感を抱かない人はそんなことする必要はないが、意識的なタスクをするときでも無意識が構築した行動様式は当然出てくる。

 

行為の蓄積が存在であるとするのであれば、行為をしない方面に働く無意識はどうにかした方が良い。ただ、「思考のすごい力」もエピローグになったが今のところ書いてない。

 

これが書いているのは、自己観とか世界観の更新の方。こちらも当然無意識が構築した領域の方が広く、統計的に有意な水準になってくると、心理学とか行動経済学の観測対象になってくるのだろうな。「バイアス」がそう。やっかいなのは「確証バイアス」で、判断に迷ったときに、周りが正しいとしているものを選んでしまうというもの。これって無意識が世界を収集する機能の1部だと思う。自我も世界観の1種で、自分とはこうであると周りに決められたことが確証バイアスになる。自分で決めた自分ではないという違和感があるとすればここ。誰かの他愛ない心無い言葉や振る舞いこれを形成することもあり、なかなか恐ろしい概念。

 

個人的には、自我って現実的な「もの」ではないからあまり決めなくて良いのではと思う。肉体と等価のものみたいに捉えがちなのは、唯物史観の影響なのかな。別に無理に決めなくても在るものだし、ものである必要もないし満足の対象でもない。

 

どうでも良いが、僕は我ながら知性も感性もないとしている。悟性はあるのかもしれない。知性は分けて決める能力で、僕は全然決め切れていない。感性はどういうものなのか認識できていない。世界を捉えるものさしという意味ではもちろん自分のだが、自分がどういったものさしなのかが分かっていないし。

 

人の知能の決定要因において遺伝子は37%であとは環境の方が強いとか。特に、胎児期の母体の影響。ストレスに置かれた体はストレスホルモンが血中に流れていて、胎盤を通して胎児に流れる。ストレスホルモンは成長・促進ではなく、危機回避のために緊張状態になる信号だから、胎児もすくすく育てない。僕は知能もないと思っているが、なんだかんだストレス耐性が強いのは、僕がお腹にいたとき母親は安心していたのかもなと想像する。跡継ぎである長男を授かって良かったみたいな。姉の時はどうだったのだろう。のちに面と向かって産まない方が良かったという発言が出てくるくらいだから、環境としてのがっかり感はあったのかもしれない。

 

知能がないというのは本当に思っていることで、これがほんとにあったらもっとこの社会で有用な合理的な選択ができていただろうなということ。ただ、ほんとに素朴な自分が求めるものを選択できているという意味で悟性はあるのかもという次第。

 

「思考のすごい力」で、筆者が講演をしたとき、最後に「1人1人は自分の人生に責任がある」と言ったら、自分の人生がいかに不遇だったかを語りにきた人がいて、「気付いた後には」という訂正をすることになったとか。たしかに、信念で世界が変わるとか言われても難しいよな。今までの自分はなんだったのだって。これも人生を物みたいに捉えている結果だと思うが。

 

「もの」という無茶苦茶難しい哲学本を読んでいる。「もの」とはそもそもなんなのだということを哲学的に本質まで遡るという、興味がなければ一生縁がなさそうな本。まだ早そうだが、僕の素朴なものさしがなんであるかが少し解明されるというシンクロニシティ

 

ものには潜在的傾向が含まれるのかという議論が書かれている部分。馬は早く走れるというと能力だが、走っていない馬の「もの」性の中に早く走れることは含まれるか。怪我をして早く走れないとしたらどうか。

 

ふと、宵顔さんに対する私信で、僕は可能性的世界に生きているということを書いたことを思い出した。宵顔さんを使ったセルフカウンセリングみたいだが、この人全部きちんと自分のものさしで捉えずに聞いてくれる。コメントはないのだが、それも良い。(好き)

 

そうでもなく、僕が捉えている世界の「可能性」は、現実離れした遠い未来の空想を含むということではなく、潜在的性質みたいな意味合いなのだろうなと断片がかちりとはまる。例えば、液体の水は「いま」は液体でも冷凍庫に入れれば個体になるし、火にかければ水蒸気になる。これらは知覚としては全く別物だが、全部おなじ「もの」。

 

これを人に引き直すと、人は可能性しかない。もちろんいやおうない変化としての経年もあるが、そうじゃなくて、行為の継続による変化とか、意志による習慣からの離脱とか、世界に対して唯一自由な存在。この存在として捉えたとき、相手が「自分として捉えている自分」も可能性の一部でしかない。

 

僕は可能性的な自分の存在の変化をモニタリングしてきたから、人のこともそう捉えている。ここになると人は物体ではなく、エネルギーというか波みたいなものよな。どういう存在なのかという波長。役に立つとか知識を更新してくれるかどうかは材料にならない。

 

世界にしてもそう。自分の認識が変わるだけで見え方がガラッと変わってしまうという意味の可能性の世界。確証バイアスは見たいように世界を見ることで、こういう風に見ている限り世界は1つの物体みたいになる。

 

意識はバイアスだとしても、世界の波に影響を受けられるのが人間。

こういう意味でも人が影響を受けうる最大の対象は人。

 

キルケゴールさんも人間が至高なのは、絶望する可能性があることとか言っている。でも現実的に絶望することはいけないらしい。ややこしくて癖になりそうな文体。

 

スケールが大きい話なのか小さい話なのか分からないな。

まぁ現実ってそういうもの。宇宙を観測していたら原子より小さい量子の世界と繋がるとか。

 

認識と知識の違いについてお月様を眺めながら思索していた帰り道。

 

無意識が肉体的な有用性をものさしにして世界を収集していることからすれば、知識を頭に残すためには有用性を刻み付けないといけない。これが忘却曲線とか、頭で覚える前に体で覚えるのだという世界観。忘れたた死ぬぞというストレスをあえてかけるみたいな。

 

僕は知識を積み上げ方式みたいにできないと書いたはず。世界が細かくなるだけ。これは知識ではなく認識なのだろうなという感じ。認識は、世界はこうなのかというピースがはまるだけであって、決して新規のことではない。

 

例えば、法律学で言えば、法律のルールで社会が動いているということ自体は体に馴染んだ現実であって、理念的な学問の世界ではない。あと、ほんとの当たり前だが、街が綺麗なのは掃除している人が居るからとか。こういう認識もない人が多い。昨日の川の画像の場所、地面に目を向けたらやたらと吸い殻が多い。御苑は凄い意識が行き届いている。

 

僕はおそらく、もっときちんと世界を認識したいのだと思う。ここには自分も含まれるし、人のことも含まれる。僕が生きてきた世界だと、人って自分のことが見られたいだけで他人のことはその範疇だけの存在だった。逆から見ても自分は他人から見てどうかという存在になる。

 

こういう世界の見え方は、無意識の構築から当然なのだが、だとすると、僕の素朴が捉える自分とは無関係な有用でもない世界ってなんだろう。という素朴な疑問。スーパーの店員さんの雑談模様とか先輩男子が良いお医者さんに当たっていますようにとか。元恋人さん達も、もはや僕には無関係だが勝手に幸せを祈れる。

 

本の師匠が評価した、貴方は読む人というのはそういうことなのか。

師匠まだ人生劇場続いているだろうか。

 

人の見え方もなんだか変わってきていて、有用性なぞどうでも良く、当人がどう生きているかに目が向いてきた。もっと早くこれだったらとは思わなくもないが、だから宵顔さんを見つけられたという向きもある。

 

人が何を意識して生きているかは別に話さなくても見ているだけで読める。発話の方がきっとノイズが多い。文章の方が本質に近い。

 

うわ、いつの間にか長くなった。

 

早番なので早く寝ないと。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。