思考の道筋

 

 

 

どれだけ善解しても今が続くだけ。

 

 

昨日は蒼では頭が冷え過ぎて普通の枕で就寝。起きて体温を計るといつもの温度より1分下がっていた。流石の恒温動物。

 

稲刈りされた田んぼを横目にジャケットを着て出勤。気が早いことで次のピンクの絨毯を想う。気温が下がるのは動く分には良い。汗をかかないように歩くということをしないで済む。調子乗ってスピードあげていたら滲んできたが。動かない分にはすぐ冷えるデスクワークの昼休み。芯まで冷えて食後の缶コーヒーはあったかいでちょうどよかった。

 

お月様はやはりお綺麗。同じように帰途につくビジネスマンは誰一人気付いていないように見える。月なんか見上げてないで生活の向上を考えろとこれだけのほほんしている様を発見されたら言われそうだが、人のパフォーマンスが最も高まるのは適度なリラックス状態だと思われる。無駄なことが目に入るという自分の余白に気付けるのは、状態としてはよろしい。プレッシャーかかると視野狭窄になるし、必要なことすら見落としてしまう。

 

先週何日か、通勤路の公園に保育園のバスが停まっていて、園児に「走れ! 走れ!」と怒号が飛び交っていた。学校は良いところだというのが一般だが、個人的にはもう二度と行きたくないかな。貴方の為だって言いながら義務に浸らせるのだから。仕事は自分で決めて、きちんと対価が返ってくるのだから、ぜんぜん違う場。まぁ社会の縮図としての義務が子供は勉強であるというのはまぁ分かるが、これは中身を習得させるというより、「時間をかけた」という社会全体の免罪符みたいな感じがする。義務に馴染める人を選別するという意味合いもあるのかも。ぼろくそ言っているがそれくらい遅れている分野だと思っている。

 

高度経済成長期みたいに、社会全体がやった分だけ返ってくるみたいな風潮だったら問題はない。もしくは元寇までの封建社会の戦争で勝った分だけ土地が入ってきて報酬にできるとか。

 

あんまり知らんけど。

 

 

さておき。

 

冒頭に戻ってきて。いまが続くだけと書いたが、折に触れて「世界ってこんなんだっけ?」と変化を感じるから、続く「いま」は今までの今ではないらしい。

 

本日の葛藤は、毎日こんなにぼーっとのほほん生きていて良いのか、何か落とし穴ないかというところと、宵顔さんが僕に懐いてくれていると捉えるのは都合良過ぎないかという常識からのブレーキ。

 

僕はあまり常識という言葉は遣わないのだが、法律学でいうところの「社会通念」みたいな意味合いにしている。一般の人であれば、こういう事態に対してこう認識してこう行動を取るだろうというような、無意識の社会版という感じ。

 

ただ、よくよく考えるとこういうのは今更さらさら。

 

信念が細胞を変化させるとか、憤怒が腰痛として体に現れるとかも僕はそうだろうなと素朴にありうることだとできるが、社会通念はこれを正としないだろうし、何かを記憶するためには義務的に負荷をかける必要があるという正も僕はあまり信じていない。

 

仕事中にことさらぼーっとしているのは、自分の中でやった感とか努力した感を自覚するよりも、緊張をしないようにした方がきちんと問題に向き合えるところ。まぁ、ぼーっと宵顔さんの存在を意識していたのは否めないが、この人は存在として全然邪魔にならない。

 

あとのほほんしていても、自分が何をしているのかはずっと意識している。意識って一般的には行為の後に過去形として認識されることだが、いまどうか。歩いている時には歩いているからだを意識しているし、月を見ているその月を意識する。写真を撮るときを継続している感じ。写真は空間を切り取るのではなく時間を切り取るのだという「考える身体」のフレーズからすると、意識も時間を切り取っている。これをシャッター開けっ放しにすると、時間がほんとにすぐ終わる。ただ、1日が早く終わるということは、人生を退場するまでの体感時間が短くなることでもあり、ある意味生き急いでいるとも言えなくもない。

 

素朴な自分の範疇であればこんな風に社会通念とかなんとでもできる。どうでもいい切り取りでいうと、「スナダ」という建設会社のロゴが何故クジラの尻尾みたいなのかとか、公園の「トベラ」という植物の収集、道行く名も知らない木(サンシュユなのではと勝手に想像)に赤い実が付いているとか、ドラクエ6のチャプターの細かいところとか。

 

ただ、誰か具体的な人物と接する時には、素朴な僕の読み取りでほんとに接して良いのかの自信はなく、であれば僕の常識と相手の常識を見て様子を見ながら接するのが無難となる。僕の常識はずれ観は相手には当然読み取られそうだが、それでも社会通念に合わそうとする。これは常識で言うところの自信がないということか。

 

ただ、僕の人の外見の読み取りって、別に常識との答え合わせではないし、たぶん言語で表現したって当人も分かっていないところ。いや、発言したら自覚するかもしれない。エレベータの待ちで誰が乗っていることを意識していない立ち位置ですよねとか、ポイ捨てした煙草は誰が掃除していると思いますかとか。グレーで言うと、電車で優先座席に座る若者とか。別にけしからんとかではなくて、そういう人とは合いそうにないなというだけ。

 

あんまり細かく書くと細々指摘する姑さんみたいになりそうだが、あくまで読んでいるだけで、僕に合うようにしろとはならない。別にそれを見ることがストレスになる訳でもなし。

 

怒りだけはあんまり読まないようにしている。

負のエネルギーに当てられてしまうため。

 

常識外れだが個人的にしっくりくるフレーズ。「思考のすごい力」で「人間は環境の鏡である」。自分が自分で在るということを当たり前としているが、自分の思考様式、行動様式、言葉遣い、無意識に過ごしている限り全部、鏡だと思う。まず自我の起こりが反射だし。僕は自分が人の鏡だとずっと思っていた。ここまでは思っていなかったが、相手の認識の上限の中で僕が在る、みたいな。割と言葉遣い悪い環境に生きていた人が僕に対しては素朴に注意深く丁寧に言葉を扱ってくれるのは良きだったな。

 

僕の素朴な言葉遣いはここにあるように、まぁまぁオリジナル。母親と話すときは伊予弁みたいに話す。ここは発話とは別の文体。完全な文語でもないが。

 

そういえば、「クララとお日様」読了。美味しかった。

書かれてないけど読み取れる世界背景として、AFは子供が成人(18歳)になるまでの生育玩具という扱いで、物語の最後には廃棄場のシーンで座っている。情報漏洩とか考えれば、AFに意識を残したまま廃棄することなんてあり得るのか、いや、セキュリティは万全で情報の読み取りが不可なのかも。

 

面白いというか、人間の真理だなと思ったのが、この前書いたときに読んでいたところでは、クララ(AF)は人を学習し続けたら人をコピーできるという認識だったのが、最後には、人はどれだけ学習してもその先があってコピーはできない。その先には関係があるみたいに結論付けたこと。昨日の日記みたいであり、「うしおととら」の「とら」が人間を学習した結論と近い味わい。この美味しさはこの読書経験をしてきた僕にしか味わえないから、あんまり言語化はできない。レシピを語りだすとキリがない。

 

この後、大学教授が評論を書いていたのだが、読書感想文みたいだなという感じ。たしかに僕も劇評の時は同じような文体で書いていた。だいたい書き方が決まっている。物語の背景とか、何を書こうとしていたのか、まとめみたいな。

 

そうじゃないという素朴。自分が何を感じたかが全て。フォーマットに合わせて書くより困難だが、僕は劇評のフォーマットに合わせつつやって感じはある。感じに全振りすると文章として成り立たないのだが、土台があればなんとかなる。全部振りしたもの自分のページから世界に投げたいところ。

 

その本を読んだことがない人でも読んだことがある人でも読めるような中庸。

 

ともあれ、人を常識で捉えなくて良いというは若干解放感がある。

 

まだまだだわ。

 

では、おやすみなさい。

 

良い夢を。