ただの思索

 

 

今まで起こらなかったことがこれから起こらないとは限らないし、今まで起こっていたことが起こらなくなるとも限らない。だから、何かを選ぶときは消極的理由ではなくなるべく積極的理由を優先するしかない。

 

 

 

わちゃわちゃした夢。第1部は誰かと待ち合わせているのだが、その相手が誰か分からない。父親が早めに送ってくれるとのことで、どこかの街中に着く。そこには中学時代の友人が居て、何か高圧的にまくし立てられた。なんでそうなのだと聞いたら、「だって、ゆ」というところで目が覚める。まぁ、僕の夢の中なのだから幽霊も居て良いのだが。第2部はおそらくあの有名人をモデルとしているだろうすっぴん美人といちゃいちゃ。抱擁はなく接吻のみ。今までの経験の集合体みたいな唇の感触。なかなかいい経験をしてきたものだ。欲求不満なのかもしれないが、その為に対価として出せる時間がほとんどねぇ。欲求不満は解消したところでまた不満になるだけだし。別の文脈から充足しないと。

 

第3部は学校で集団行動していた。学校はよく出てくる舞台。実際通っていた小・中・高の校舎の融合した形。学校って芸術としての建築物として優秀。小学校の木造校舎が一番恰好良かったかな。建築と舞踊は似ていると書かれていた。造形美。

 

 

そうして仕事に向かったのだが、気付いたら残り時間3分だった。なんだかトリップしてないかと不安になったが、何を話したか、何を収集したかは残っている、大丈夫。内心の信念が影響してきたのか、高圧的な人に当たったが全然堪えないし自分がまずかったとも全く思わない。なんというか、そういう風にしか生きられないのだなという感じだけ。

 

昼休みは檸檬空中庭園。なんとかドルチェという花を見ながらお弁当を食べているとお母さんと男の子が庭園の植物を鑑賞していて、男の子が「お花、いい匂い!」と世界を楽しんでいた。人間にとってもいい匂いであることは生存にとって良いことだったのか、と思索。

 

トリップと言えば、僕は20代の頃、お酒を飲んでいて記憶が飛んだというレベルではなく意識が途切れたことが数回ある。もう自分を意識することを放棄したのではという解釈だが、普通に会話していたらしいし、歩きながら意識が戻る。でもこれって、無意識が人間の実体のほとんどを占めているという話を読んだ後だと、そんなに変なことでもないな。あくまで意識っていま動いている無意識の上澄みみたいなところがあるみたいだし、別に自分を制御しているわけでもない。

 

そもそも昨日発話した一言一句を繰り返すこともできないというのが意識の視界。

もともと微睡みの中にある。そんなの現代常識は認めないはずだが、意識的に生きるのは意識しないとできるようにならない。

 

母親とまた通話があった。仕事から帰った時間ってかなりかつかつだから、「ごめん、送られたキャベツで料理作らねば」と節電しようかと思ったのだが、下味付けた鶏もも肉とピーマンは既に火を通していて、肩で挟みつつ通話をしながら作りきってしまった。

 

母親には弁当画像を2枚だけ送っていて、また美味しそうにできたら送っても良いんやでと言われたが、「毎日作っているから毎日送っても良いだが」と返す。そうすると、そんなに上達したのかとびっくりされる。なんなら毎日公開しているがとは言わなかった。正味客観に耐える色合いとは思っていないが、お友達の目には耐えている模様。

 

そうして、これもふてぶてしさの一種なのだろうな。お友達に怒られそうだが、打て打て言ってくるから、「今のところ打つつもりはない」と返してみた。そうすると、移動するために検査が必要になるとか、今なら特典があるという、それ自体の効果を問題としない理由付けを積み重ねられた。不利のため(前者)に選択するのは消極的だし、後者に有利のためだと行動経済学上のナッジになる。素朴な疑問だが、本当に真実として効果があって全員そうするべきだとなったら、強制にしても良いのでは。強制にできないのは統計上の効果と、他の予防接種と同様に、致命的なリスクが発生する可能性があるからと考えるのが自然。

 

法律談義だが、適法行為によって誰か個人に損害が偏ったときに、その損害を補償すべきという「損失補償」の概念がある。公共事業、例えば高速道路とか新幹線の沿線を伸ばすために誰かの土地を強制的に取り上げることは、社会全体の利益のためにはなるが、そこに住んでいた人は住めなくなる。であれば、税金を原資として同じような価値がある土地に済めるように金銭で補償するというルール。

 

とすると、インフルエンザの予防接種が強制されたことによって死亡する人が出たときに、それは社会全体の効用のための犠牲だから、土地のルールである損失補償を「類推適用」することができるとするのかどうか。今回のでも周りに居ないだけで、打ったことによって退場することになった人は居る。これをなんとするか。

 

法律談義を続けたいところなのだが、自分にびっくりしたのが、母親に反論した自分。母親は理由とか関係なく意向に反するというだけでヒステリースイッチが入る。でも、言ってみたら、理由にならないような理由を呈示されただけだった。反論するなぞ前の自分では考えられない。

 

これなんだろうなと思うと、「思考のすごい力」にあった、人は環境の鏡で、最終的には人は環境の一部で輪廻転生はあるというところまでいく。曰く、人は環境に反応するトリガーがあるが、環境から読み取ることができるのは反応がある部分だけであり、この反応の集合体が人だから、肉体が滅んだとしても同じような反応ができる人間は生まれうるみたいな話。生物学者がここに辿りつくというのは凄い。

 

僕が反応したらしき部分は、僕は人の鏡で在るが、人にとって僕が鏡であるようにして良いということ。僕が存在している限り僕に関係する人にとって僕が環境であることはどうしようもない。要は場所を取るとか取らないとかの話ではないし、僕が人によって変わるように人は僕によって変わってしまう。ここは退場しない限りは諦めるしかない。

 

僕を読み続ける効用は知らないが、まだまだ制限かかっている感じがあるので、読むならご覚悟を。

 

法律談義の続き。

 

夫婦別姓についての裁判を読んだ。素朴ではイイオトナがなんで自分の姓を気にしているのだって感じだが、「何を気にするか」を尊重する建前なのが現代憲法だから問題ない。

 

この議論って、なかなか盛り上がらないと思う。フラワーデモとは当事者の量が違う。

 

個人的見解だと、選択姓でも良いとは思う。ただ、家族制度とかパートナーの共同体を考えると、家族制度って姓を同じくした1つの結合体としてのパッケージではある。これが「家」制度の歴史からの流れだとしても、その流れに乗りたいから婚姻という契約を結ぶ訳で、その分の優遇制度があるというのも、行政として処理がしやすくなるという便宜による。

 

ぶっちゃけると、大人同士がパートナー関係になるところで、姓が同じになるのが嫌なのであれば、婚姻しなくても一緒にいれば居れば良い。パッケージとしての優遇措置が得られないのが不平等だって、求めすぎでは。

 

もちろん、立法政策が変更されるということはあるし、変更を促すために裁判にするというのもあり。実際再婚禁止期間は短縮されたし。

 

ただ、基本的な姓の選択ルールとして、何か不平等があるということはないんだよな。どちらかの姓を選べば良いだけで、別に男性の方の姓に合わせなくても良い。事実上男性の姓が選ばれることが多いのは、「家」制度の流れだと思うが、あくまで事実上の問題でしかない。

 

事実上の空気感によって決められていることを気にするのも良い。

でも、自分の社会的な姓が配偶者に合わされるのが嫌だとなる人に聞きたいのが、子供はどうするのだということ。

 

生まれたばかりの子供は決めることができないから、どちらの姓にしないといけない訳で選択を回避した問題が顕在化する。事実上の問題もここに顕在化してくると思う。別姓を選択した割を食うのはお子様では。子供って異分子を排除することに長けているし、普通の同性の夫婦からの空気感が伝わって、いじめられるリスクはどう想定しているのだろう、自分の問題だから、子供はどうでも良いとはならんよな、あえて社会的なパートナーになっているのだし。

 

法律論よりも、常識論の方が気になるのが夫婦別姓問題。

法律論が変化したところで、実際に生活している社会に浸透するまでには時間がかかる。だって、ほとんどの一般人は法律の細かい規定なんて知らないで生きているのだし。

 

 

なんだか真面目に書いてしまった。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

気温の変化で体調崩していませんように。