巡り合わせ

 

 

 

何処にでも行けるなら。地球縛りだとギリシャ。現存しうる全空間内に拡げるのであれば月一択。周回軌道上から地球を眺めたい。

 

自分の魂の構造を散策するような夢。障子で囲われた座敷の間に格子状に廊下がある。座敷は連続していることもあり、よく分からない人物状のペルソナが徘徊している。中にはグロテスクな何かもいる。物はあまりない。部屋群を巡っていると、職場の先生が父っぽいペルソナに扮して出てきた。僕はちゃんとした父親像を血の繋がった父親から受け取っていない。その部屋には他の話せるペルソナ達が集まっており(描写できない)、何やら先生から「おもちゃのピストル」を渡される。

 

これを現実で行使するとよろしくないらしい。「2年前にもお前は、、、」ということを言われたが、2年前に何か特別なことがあったろうか、はて。夢の中でなんとはなしに集まっているペルソナ達に向けて引き金を引く。彼らは大げさに逃げるのだが、もちろんおもちゃだから何も出ない。

 

 

出勤の道すがら、このピストルについて考えていた。「縁を切る」って人の物理的な集まりに最重要価値を置くのであれば、殺傷能力がない殺人とも言えるかもしれない。僕の存在を文章で捉えている人に対して更新をしないことは、お遊びとしての自死になりうる。僕からすれば縁を切ったところで相手の存在は消えないし勝手に想える。なるほどだから僕からすればおもちゃなのか。引き金に指をかけたところで世界は何も変わらない。

 

夢は言語化されるほどに複雑化していく。これは夢が言葉でしか表現できない存在によるのではという説。辻村さんが終わったため、定期的に読みたくなる森博嗣さんを追加。同じことを書いている作家の典型だと勝手に読んでいるが、全然飽きない。正直者の味。

 

「言葉は魂だ。結局人が感動するのは言葉であって、人は言葉でできている。」

 

ほんと、良いタイミングで良き本が寄ってくる。良き人はぼちぼちという感じだろうか、まだまだ修行が足りない。言葉に含まれる力は人が素朴に想っているよりも遥かに強い感じがする。

 

ちょっとそれて。

 

エンパスについて少し調べた。これ以前も調べたっけというくらいのデジャブだが、合わせてしまう、人混みで実際に気分が悪くなる、考え過ぎて脳が慢性的疲労などなどの性質があり、5人に1人はそうなのだとか。5人に1人って、そんなに珍しいことではないなと思った。僕も確かにそういう傾向はある。人混みの波長は宜しくないし、頭の中を散歩し過ぎてなんだか筋肉痛(頭痛)がなくもない。

 

ただ、これってチューニングが無軌道、無造作に色々合ってしまう質だとすると、当然に良い波長に合わせるようにもできるのだよな。信念による自分のコントロールはここにも適用される。あんまり書くとスピリチュアルみたいになりそうだが、まぁ確かに魂的ではあるか。何に対してどんな感じがあるのかを意識するようにしていけば、たぶんなんとかなる。検温することを継続していけば、本日の自分の体温が何度何分なのかがだいたい分かるようになってくることの延長のイメージ。

 

検温は、いつかちょっとだけいちゃいちゃした本格的Mの年下の人が、女性のお月様の日は体温が下がるから抱きしめていると分かると言っていたのが残っていた。もう10年くらい前か、当時はそんなことあるのかいなと思ったが、今は納得できる感覚。そんなこと体感できるものではないという認識であればいつまで経っても感得できない。

 

嫌な感じも悪くないと思っているから一定程度受け入れている。善いものだけ採り入れようとすると無理がくるのが人間だとしているため。

 

経験則上の空気ではなく、ほんとの空気感が読めない人が5人に4人と考えるとなかなかアレだが、進化論で考えると面白くなる。この進化論的発想は、この日記でも書かれたことがある読書家のカフェ店長が、当時の今時にアレルギーの人が増えているのは、人類史的に何か意味があることではないか、寧ろアレルギーがある人の方が進化しているのではという説を提唱したことから。いや、厳密にはもともと思索はあり、そういえばこういう話もあったなという芋ずる式なだけ

 

空気感を読まなければいけないというのは、生物としては生存の為に不可欠の能力。言われないと危機に気付かないなんて、天敵が多い世界で言えば劣等だからすぐに淘汰される。

 

ただ、人間は安全を確保したため、空気の機微をいちいち察知する必要がなくなった。何かの実験で、室内に煙が巻いていても警報が鳴るまで動かないという集団性があるのもそれ。明確な根拠とできるものがあって動いて十分間に合うようになったため、世界に対して鈍くて良いという種の方が優位になる。指示待ち人間が揶揄されたことがあった気がするが、指示する側の問題でもあるような気がする。

 

まぁ、この進化はある種が絶滅する流れのような気もする。上位者はAIというストーリー。

 

そもそも、世界を動かしているのは一般的類型から外れた障害と認定される人が多いのだし、均一化された上に生態系から外れた種は、上位者に保護されない限り絶滅してきた地球史。

 

なんだかようつべで毎日眺めている美猫さんの猫としての不自由性を思ったのだが、これを書くと最後まで行かない気がする。大事にするの語彙が違う。

 

 

やれやれ。

 

エンパスは言葉への共感、ひいて物語との共時もあるよな。自分の人生とは別のエピソードを自分のエピソードとして読めるという意味では人生の回数的にチートなのでは。1周で何周もできる。

 

お友達が僕について1本日記を書いてくれた。とても嬉しい。

 

前世が御神木だという説、しみじみ。

 

魂の巡りの観念は、ないだろうなと思っていた。自分が死んだら自分という人格は無くなる。まぁ無難な見解である。ただ、何か違和感。

 

これが解消されたのが、「思考のすごい力」の生物学の生命の巡り方。1つの細胞は記憶して学習するし、レセプターによる反応の結晶体である生物は環境の一部なのだという説からすれば、自分という感じは、肉の器に留まっていることはない。

 

木の感じはとても親しみを感じるし、本もこの繋がりなのか。でも僕は人が物を大事にするようには本を大事に扱えないから、物として大事に読む読書家とは相容れない感じ。本という物質の中にある感じが大事だから物質が朽ちても問題ない。

 

僕の精神の経験の前にある感じは、誰からも学習していないとすれば、僕の細胞の受容体がそういうことにしたということであり、そういうことにしたのは、御神木の魂からの続きなもなで良い。

 

僕はずっと人に慣れていないという感じがあったのだが、ここから繋げるとしっくりくる。僕が人であることに馴れてなかったというスピリチュアル説。こう解釈すると、動くのが好き、考えるのも好き、食べるのも好き、ただ群れなくても良いなというのが分かりみ。

 

人とはこういう制限された存在なのだって学習してきたが、んなことは全然ないよな。植物は動けないから完全に環境にさらされるしかないが、人は動く物なのだから環境自体を革命できる。ただ、人の観念の中で何かしたいとかはないから、サイコパスの質でも犯罪傾向はない。

 

祈りの概念もずっと無かった。直近の元恋人さんとかに神社に連れて行ってもらって、空気感が好きだと思ったが、僕自体に願うものはないし。ちょうどその頃宵顔さんを見つけてしまったのか。

 

確かに、宵顔さんの懐は深い。というか、よく分からない。文章を読んでいる限り僕の存在を受け入れる懐は無いのではと想うのだが、なんなのだろうな。どう読んでも進化側のような文意なのに、感じがそうではないと訴える。僕のおもちゃのピストル次第で良いのかな。

 

僕が人になれたのはこの人のおかげなので縁が切れたとしても殿堂入り。

ハッピーそうなのに気になってしまうのは何故だろう。

 

あと、僕が好きな人が「来世の自分」という説を提唱していただいた。これは何かの本質を突いていると想う。というのも、よく分からない感じとして「今世では終わらないな」というのがあるから。これを魂の妙だと評してもらったが、番になる人が居ないという意味ではむしろ業なのではという気もする。

 

「何を考えているか分からない」というのは僕がフラれてきた定番のフレーズなのだが、素朴な番に馴染めないという精神性を察知されたのかも。

 

日記は考えを言語化してみているのだが、それでもさっぱり分からないとは想う。

 

全世界に公開するに耐える文章ではないのは知っているが、投げてもええかなというくらいの感覚でしかない。御神木由来だったら、もしかしたら読むことによって御利益(ごりやく)があるかも。笑

 

検温と似ている。

 

中に何かの意図がある訳ではなく、あるがままを書きとっている感じ。

バイオリズムで暗かったり静かだったり盛り上がったり。

 

ここは日記だから、もっと公開用の文体がある場を建築している。

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

世界が面白くありますように。