あるがまま

 

 

進むことも戻ることも終わることもない物足らない縁を均す為におもちゃのピストルの引き金に指をかける。ぱん、という乾いた音すら鳴らない。

 

思い込みはしたくないし、縁があるなら僕の人生劇場で逢える方が良い。想像も想定もないが、せめてもう少しフラットになりたいところ。今が続くなら端に只のファンで良い。

 

とはいえ、別段当人に何かすることはない。

 

 

 

さておき。

 

土曜日は基本的に引きこもり。不遇な○○(職業)だが云々という漫画のシリーズを一通り読んだ。最近は生まれで人生が決まっている話が多いのだな、どの時代もかもしれないが、僕が漫画を読み始めた頃はネット由来の漫画は無かったたし、ラノベという括りも知らなかったが、何やら時代性を感じる。物語の中での成功譚。別に差別はしてない。美味しいものはジャンルがどうあれ美味しい。

 

大型本屋に行きたい気分ではあったのだが、なんとなく電車に乗りたくなかった。人という情報をあまり採り入れたくない感。新しい本は追加できなかったが、家の書庫(部屋自体が書庫みたいになっている)を眺めると、まだ読んでいない本がたくさんある。吉行淳之介さんとか、リルケのマルテの手記、モーパッサン女の一生、諸々。その中で目を引いたのが、夏への扉で有名なロバートAハインラインさんの、「ラモックス」というSFファンタジー

 

ラモックスというのは架空の実在の生物で4足歩行、干し草を食べ、思考もできる。大食漢らしく、隣家の狂暴な犬を丸飲みして、「悪くない」とか考える。夏への扉とは筋が随分違うが面白そう。

 

伊坂さんも読み終えた。ハッピーエンドではないが、それでも人生は流れていくという後味。悪いこともあるし、良いこともある。そんな感じ。

 

森さんの主人公も人生について考えていた。生きることは死ぬことよりも果たして「マシ」なのか、そう思い込まされているだけでないか、みたいな。

 

人生観はすなわち当人がどういう風に生きてきたか、生きているかによるから、正しい答えなぞなく、自分で捉えるしかない。

 

宵顔さんのニッキを読んでいて、生活についての自分の感じを観たのだが、僕にとって人生(生活)はあくまで継続とか続くとかではなく、通り過ぎるもの。通り過ぎる中で続けることがあったとしても、それは生活そのものではない。続いたものみたいな受動的な捉え方はしていない。続いたという受動性だと通り過ぎるものと等しいのではという説。生活しているのではなく生活されている。

 

別に宵顔さんを否定している訳でもない。ハッピーを外から来るものとしているようなのは若干気になるが、人生観は人それぞれ。

 

でもなくて、悟りの本で、「思考なき気づき」がすなわち存在であるという説があって、こちらの方がしっくり来るというだけ。思考なき気づきは言語化できないとのことだが、僕の語彙としては感じに近い。感じは言語化できないが言語のもとにはなるし言語の前にある。

 

この思考なき気づきという概念は理解しようとすると難しい。自分の思考や感情が通り過ぎるものだという意識を1つの世界と捉えた上での俯瞰的視界みたいなものかな。たぶんスピリチュアルとか禅の世界での「瞑想」しているときの境地に近い。自分の心に移るよしなし事をただ眺めるという兼好法師さんもそうか。

 

この視界こそが存在であるとすれば、何かと連動していない自分の思考も感情もなく自分という括りは要らなくなって安らぐとかなんとか。たしかに、自分という括りは仮設なのだなと思ってきているし、思考はほんとに自分に考えたことではなく何かをなぞっているだけなのかもなとふと想起された。

 

「自分が」世界を理解している訳ではないという感じは、もともと僕の中にあった。それを言語化できるかどうかは問われない。

 

この全部の一部観はハガレンみたいでもあり、だったらこの世界における自我は何なのだとなるが、この悟り本が良いのは、一般常識的な相対的観念も自由に都合良く扱えば良いという現実的なところ。

 

感じが存在であるということは、「思考のすごい力」の最新生物学の輪廻観とも一致している。ここまでくると、生きているか死んでいるかの状態はあまり問題にならない。宇宙全体で共生しているのだから。

 

ただ、人間はこれを把握した上でも個で在ることができる。むしろここからが人間として生まれ落ちた醍醐味。絶望なんてしている暇はない。遊び放題。

 

あまり人とは対話できないが、本とは無制限にできるため、悟り本とも語り合う。思考なき気づきはものではないから言語化できないし、感得もできないとのことだが、果たして本当にそうだろうか。これって要は、世界を観るレンズとそれが捉える空間としての意識ってことよな。現象が意識化されている間にしか自己は無い。

 

でも、その意識として登ってくる現象(思考、感情、物質など、現実非現実を問わない)は、意識の中にどれだけ語彙があるのかによるのでは。

 

世界は客観的な存在ではなく、人類が言葉で創作したものでしかない。という感覚は、別に固有なものでもないはず。喜怒哀楽も言葉がなければ、だだの通り過ぎる風景みたいなものでしかなかった。感情が豊かにできたのは、分ける言葉が発明されているから。

 

で、本質はこの先にあって、言語で当てられない何かがあることを認識できるようになること。例えば僕の話だと、視界の中で何かふと目に留まる。草花がどうのもあるし、あ、電車が通りそうとか、この人はこういう風に動きたいのだろうなとか。あるがままの世界。

 

数学が世界を記述できるのも、もともとそういう世界だったということでもないような気がする。マイナス×マイナスがプラスにならないとルールが成り立たないというやっとこさ中学レベルだが。

 

人とは何ぞやをずっと考えてきて、自分にとって都合が良く世界を眺めるのが正なのかとしてきたが、僕は全然都合良くは捉えてないな。そもそも都合がない。

 

こういう自在性の中でもっと遊ぶ。

 

我ながら面倒くさい自分だが、ご時世で閉塞感がなかったのは分かった。

 

悟り本で、思考が現れたときに分析しようとしてはいけないと言っていたが、僕は別に分析してないから、頭が熱暴走するということはないはず。別に答えがあると思って考えていないし。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。