余韻

 

 

 

秋は夕暮れとはいうものの、この時節にはマスクを通り越して醸す。花は慎ましいのに香りは否応なく偏在させる、圧倒的存在感。カタチもニオイもそのギャップも全部愛でる。

 

固有名詞を出さずにそれと表現してみる試行。

実家にも1本植わっていたから、なんとなく親しみがある。

 

 

さておき。

 

本日も基本的にごろごろしていた。「魂のまま生きていれば今日やることは今日わかる」という表題みたいな生。何もしてなくても自分劇場のスクリーンには何かが映っては消え続けるから、自分に飽きが来ない。

 

「悟りを開く」の残りを一気読み。2000頁くらいあったが、kindle本は電子で読みやすいいように1頁あたりの文字数が少ない。フラッシュリーディングくらいの感覚で読める。

 

個人的にはやっぱりなという感じなのだが、自我が根付いている人格には割と捉え難い感覚なのだろうとは思う。自分が自分だと思っている中心(自我)も通り過ぎる現れでしかなく、全てが空であると言われたところで、じゃあ今まで積み上げてきた自分は何なのだとなるに違いない。

 

この本が語っているのは、全ては気づきで、思考、体験、状態、現われもこの気づきとセットでしか意識できないということ。思考のない気づきに目を向けることによって、この自己を他と独立させている概念が流れていくものでしかないということが実感される。これが悟りとのことらしい。で、とても正直で良いのが、悟った所で、特に何かが変わる訳でもないというところ。慣習的な現実生活の価値観が変わる訳でもないし、何か凄くなれるとか成功するということはない。変わるとすれば中が穏やかになることだが、フィルターが一新されることもなく、喜怒哀楽は通常営業で発生するしネガティブも起こる。

 

少し細かく書くと、思考が言葉と映像でできているというのは、そんなものなのかなと思う。ここでいう言葉はどうやら概念で、プラトンの言うところのイデア論みたいなところ。厳密な概念ではなく、単に経験上、学習上の実在みたいな意味合いっぽい。椅子とか壁とかを言葉として現実に配置して見るから、物体と自分は別の存在のようになるし、ひいては自分の存在もそれ以外とは別物だという概念になる。

 

僕は概念で思考するが、イデアでは一人事らないような気がする。ここで言うイデアも厳密なものではなく、抽象的な類型というより、代表ヒューリスティックみたいな感じ。要は、自分が思考している言葉が世界の客観みたいになる感じ。この人はこうだとか、自分はこうだとか、世の中はこうだとか。

 

時間の概念もそうで、最終的には現在過去未来はすべて無く、いまの体験のタペストリーとのこと。これはとても分かる。ただ、著者さんが想定している感覚を越えているかもしれない。過去を思い出すという概念を媒介にしなくて良い自分は時空が関係なくなる。

 

ふと、素朴な自己観についての認識が戻ってきたなというところ。僕はたぶん生身では長く過ごした恋人さんに対してもっとも自分で在った。自分が好きとか嫌いとかという自己評価について話していたとき、「自分自身はそういう評価対象ではない」って言っていたのだよな。その後諸々あって曇ってしまったが。僕の人生上今のところ唯一実生活のパートナーになりえた人物だと思われる。もっと自分になって良いって言ってくれたし。(今後は未定)

 

今の社会の、人格論。教育心理学なのか発達心理学なのか知らないが、統合した自我があって、物事を自分の基準で判断して見解を述べるようになるという健康的な精神観があると思う。自分の意見はないのかって、空気に合わせた意見しか語れるように教育されていないのに、そこに本来の当人が在る訳がない。

 

思想とか信念とか意思も、言語化される概念でしかない。でも今の社会は、ただ流れゆく個は同定できないから、何か独立した個があると仮設する。こういった慣習的な概念は結局選択式で、それをもって自分で在るとしなくても良い。

 

あと、自我という物語の話がとても面白かった。仮想として、今まで出会って来た人たちに周りに囲まれているとして、その人達になんと評されてきたかを見てみましょう。それが貴方の自己評価を創造しているのです、みたいな。人間関係は構造的に鏡になるとも書かれていて、そうそうとなっていた。

 

自我があるとするためには、何かの欠陥を設定しないといけないというプロット的なのがあり、たしかにどの物語の主人公にもそういうところがあって、創作と素朴な人格論はこういう近似があるのかとなる。ほんとは欠陥あるとかないとかどうでも良いのに、自分を独立させるためにはそういうことにしないといけない。

 

僕は鏡に合わせ過ぎていたという自覚。色々書いていてくるくるしているのも、思考ではなく試行であって、僕は自分の存在を言葉で既定されるものとも既定できるものともしていない。自分が無いからこそ、自分について書ける。

 

出来事がないとか思い付くことがないと日記が書けないみたいなのも、発した言葉によって自分が既定されると思い込んでいるからなのだよな。当然僕は言葉だけで存在を捉えないし、常套句ばかりの言葉では響かない。

 

結局は世界が空であって実在するものは無いという感じの方がしっくりきていたという素朴な自分劇場。実在するものがほんとうに客観的に存在しているのであれば、実在に対する哲学はないし、人類史は続いているのだからもっとまともになっているに違いない。

 

なんで皆そこを諦めて生きているのだろう。

自分すらもっと良くできる余地はあるのに。

 

ただ、この実存がないという当たり前を肯定してくれる人がいるというのは救いで、だからこそ生身の人生が生々しく生き生きして良いということになる。僕はもともと社会における正しさにずっと疑問があったし、客観的も当たり前もその社会においてという注釈付きのもでしかない。

 

もう世界に対して知ったかぶりは一生できない。

 

宵顔さんとはいったん縁を切ってしまったが、ちょっと書いておこうかな。

この人と現実になりたいのは、文章に書かれている世界観と僕が実際会った時に捉え像がブレているから。ハッピーな生活像と、自分を読んでいる人に対してのレスポンスはあるのに、僕に対してはほとんどそういう言語化がない。

 

僕の文章を読み続けていることに対しても何にもない。

レスポンスとしては、嬉しいとかなにがしかとかあったが、あくまで当人に向けた文章であって、僕の文章ではない。

 

あとは、おそらく社会全体について考えられるの凄いなというニッキの人物は僕なのかもなと。

 

なので、一回は僕の人生劇場の中で会ってみたい人。

僕が好きになったところとは鏡ではないが。

 

別に私信を送らなくても、何もなくても好きな人としての存在。

読み続けているのはファンになってしまったのか、でなければ。

 

自分の感情に理由を付けるのは悪手。

感情が自分として既定されてしまう。

 

 

面白くなってきたというか、もともと世界は面白かったよなという次第。

もともと誰のことも鏡として捉えてなかった。

 

 

はい、おしまい。

 

ハッピーでありますように。