無重力

 

 

 

明日はお休みのため、なかなかゆっくりとしている。日記を書く前、柴犬、もち猫のようつべを眺めているのだが、ここにカワウソ動画も追加される雰囲気。愛でている感じでもないのだが、何やら見てしまう。

 

いつも見ていると言えば、ニッキの更新。何故一日分だけなのだろう。だいだいどかっとまとめて更新なのに。

 

日曜に作った三種のジャンのナムル(三種の醤とか中華一番ちっく)、買った牛筋の煮込み、ベビーリーフの他に、アボカドが100円だったため思わず購入。ポッカレモン、オリーブオイル(多め)、ごま油(ちょっぴり)、わさび、めんつゆで味付けして、味付け海苔をちぎったおつまみ。マイルドで美味い。

 

ご飯と言えば、シェイクスピアさんのオセローも追加したが物語枠が薄いから村上さんが訳した「フラニーとズーイ」を追加。冒頭の手紙が、完全にねじまき鳥のメイで、これはきっと逆なのだろうなと思う。これを村上さんが読んで、自分の物語に昇華したという時系列を逆から辿っている。サリンジャー氏にそうとうな影響受けておられると見受けられる。

 

そういえば、僕が現実に手紙を書いたのも、ねじまき鳥を読んだ後だったかもしれない。長く過ごした恋人さんに何通か。返ってくるべきだという外付け観念でやきもきしていたように思うが、僕の素朴は別に返ってくることを問題としてなかった。

 

そうして、世界に向けた瓶詰の手紙みたいなものを書こうとしているらしい。なるほどしっくり。「拝啓、お元気ですか。」で始まる冒頭文が頭の中で紡がれている。そう、こういう風に言葉を綴りたいのだよな、たぶん。

 

 

仕事。女性上司と血液型談義をした。予定が遠いと楽しみで、近くなるにつれて憂鬱になり、かといって実際にそこに行けば楽しむのはAB型の傾向なのだとか。かつてそういう所あったから、たしかにそうですねと談笑する。あと、恋人としての相性が合う血液型はA型だとか。たしかに長く過ごした恋人さんはA型だし、1ヵ月でフラれた人はB型だった。

 

ちなみに、僕は血液型が素朴に及ぼす影響はほとんどないだろうと思っている。人間は4つの類型に分けられる訳がないという見解と似ているが、そう断言する人はきっと他の類型で人を無意識に分けている。素朴に及ぼす影響は無くても現実的な環境として影響はある。この血液型は○○だという観念に囲まれていれば、そういうものなのかとなり、その条件付けによって、現実の言動が変動する。これは血液型には限らないが。

 

条件付けと人格的重力。

 

心が軽いというか前後深くというか、方向感覚が失われている感じがあった。これからどういう方向性になるのだろう、みたいな。

 

Kindle本が悟り系のことばかりをお勧めしてくるものだから、あんまり続けて読むのもどうかと思ったが、漫画を読むのも続けるとアレだし。サッカー漫画をごろごろしている間も含めて最新巻まで一気に読んだ。45巻分。かつて天才的感覚を持っていた主人公が事故にあって凡人になったのだが、最新巻当たりで感覚を取り戻す覚醒譚。サンデー好きだし、この作者さんの野球漫画も好きだった。

 

ともあれ。今度は、目覚めの定着みたいなスピリチュアル本。心が条件付け(慣習的観念)から解き放たれる感じは分かるのだが、僕は別にスピリチュアル的感覚で生きている訳でもないなぁと想う。世界は未分離であるという認識が腑に落ちたとき楽になるというのは分かる。でもなんか違うのだよな。

 

違いのまず1つ。目覚めていくうちに階段を上って視界が高くなるというイメージ。いや、高尚になるということで既に目覚めていない人を下に見てないかという素朴な疑問。僕の中では解像度が高くなる感じで、誰かがどうのというのは関係ない。

 

とはいえ、著者がそうとうに注意深い人で、目覚めたところで掬われたりはしないし、何か自分が高まることはないと書いている。その自分が仮設だということが認識されることを仮設だとする。エセスピリチュアル本はやってこない。

 

条件付けのエネルギー性はもともとずっと疑問に思っていた。僕は自分が何かの為に行動をするということがずっと苦手。意味があると条件付けられた社会的な観念に従えない。従わなくてもある程度結果的にはそういうことはできていたのだが、なんでそこに執心するのかがさっぱり分からなかった。

 

欲がないとはまた別の意味。

この辺りを言語化し出すと、かなり難しくなってくる。言葉だけで通じる領域ではない。

 

条件付けの観念は意味があることだけをするべきみたいな義務の観念で、その反面に無意味な息抜きがある。仕事と余暇(遊び)の関係みたいな。でも、人が自分を生きているといえるのはどう読んでも無意味の領域。意味がある生活領域で自分の生を感じられないのはそういうこと。この観念って、あくまで都度の社会が外から押し付けたものでしかない。

 

ということが分かったのは悟り本を読んで良かった。

でも、最終的に、他人に奉仕するようになるとかみたいなのは、中道のバランスが取れていない気がする。

 

せっかく自分で在る器があるのに、悟りというアカシックレコードに準拠するのもいかがなものか。バランス取るのはすげー大変だが、世界の一部であるというということに気付いた後でも自分で在ることが醍醐味なのではと想うんだよな。僕は悟り切った賢者ではないが、世界の流れの一部に流されるのであれば、社会的観念のままで生きることと変わらないし、なんなら御神木のような植物が当たり前にやっていることだろうし。

 

個人的に、世界に対する解像度を上げなくても良くなる感がどうもよくない。学問を収集しなくて良くなるのはどうも。たしかに悟りの境地からすればすべては無為なのだから、新しいも古いも無く認識は更新されるものではない。でも、その認識の解像度は意識的な部分での無意味なことの継続だと思う。

 

まぁ気楽になったのは確かだし、こういう本を読んだことで世界の捉え方のバランスの悪さが分かった。僕は世界に対しても観念に対しても開いている。ここで言う、開くの意味はあるがままで味わうということ。

 

ただ、人間に対してだけ開いていない。人間にはその人が創ってきた認識があるし、その人の世界観をなるべく壊さないようにと気にしていた。

 

この閉じた世界について、悟り本は、自我なんてあってないようなものだから、他人の世界観なぞ気にしなくて良いと言ってくれる。僕は自分に対してはもともと既定していなかったが、倣って自分とは何ぞやと自己紹介めいたものも書いていた。

 

当然、相手の全貌なんて把握できるわけがない。

そんなことより、貴方がどうであるかが気になる。

 

この気になるは、別にまぐあえるとか恋人になれるとかの目的、効果はどうでも良い。

宵顔さんに私信を送り付けまくっていたのも、ただの意思であり、この意思には意味があるとしようとしたからバランスが悪くなった。

 

バランスで言えば、宵顔さんの視界に僕みたいな奴が居るのは悪影響な感じだが、そこも気にしなくて良いんだよな。ただ、僕は気にするからとりあえず撤退した。

 

要は、僕が素朴で生きることで他人の世界観を揺らがしても問題ないと思える勇気。

んまぁ、こんなこと仕方がないよな。他人のことなぞ分からんし。

 

悟り本は、あんまり人間関係のことを書いてくれない。

当人の話ばかり。当人から離れるのが悟りなのでは、もにょもにょ。

 

とりあえず、僕は僕にとって都合が良いとか関係なく人と接してみることにする。

対宵顔さんにはずっとやっていたのだが。

 

そんな感じでおしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

(宵顔さんのことはどうしようもなく現実的に好きなのだよな)