舵取り

 

 

現象を意味と名が付く自分色に染めないと日々微々見える色が変わる。

 

 

本日は障害が発生してイレギュラーな残業。昨日書いていた人の負の空気に距離置くというのが実践できたのか、人のイライラ(当然の感情)に当てられない、当てられても過ぎさらせることができた模様。今日も楽しかった。場違いな感じを醸していこう。笑

 

ポイントは意味とか価値とか。

 

いったんおいて、本日の晩御飯。副菜はたくさん作ったからそのままだが、大根が1本100円と安かったため、煮物にした。レンチンで下ごしらえして時短。生米と昆布と水が良いというのを見たため、塩昆布で代用してみた。帰ってすぐ使う分を切って、レンチンしつつカチカチ。

 

楽天で注文した残りの本が本日届くとのことで、受け取らないといけないのであれば、今日明日は無理だろうなと思っていたが、ポストに入れるタイプの配送だったらしい。この教授の文体、真摯で好きだわ。前書きを読んだあと、お風呂読書の塔に追加。

 

大根はほんととろとろに仕上がった。あとの食材は豚肉、人参、厚揚げ。自分だけで食べるのが勿体なくなってくる、なんて、別に言い過ぎではない。あんまり独り占めって好きではない模様だし。

 

フラニーとズーイ」はカップルの会話のシーン、美味しそうにオリーブ食べるふりをしないといけないとか、完璧な美少女と正しい場所に居るとか、なんかこのカップル別れそうだなという感じ。それはともかく、ドストエフスキーとかシェクスピアとかの文豪たちが会話に登場し、この人たちは考えて書いたのではなく、心が赴くままに書いたのだというのがなんとなくしっくりくる。心のままに書いたら歴史に残るとか天才じゃんとかなりそうだが、ここで言う心のままというのは、エゴ的に書きたいことを書くとはちょっと違う気がする。

 

書きたいという意志とも、書かなければという使命感とも違うシステムが働いているのでは。だから普遍的になりうる。中に村上さんのあとがき的しおりが入っていて、読み終わった後に読もうと思っている。ちらっと眺めたところ、サリンジャー氏は訳者あとがきとかの余計なものを禁じているとのことで、なんか好感が持てる。村上さん自身も文庫版の解説とか書かせてないよな、たしか。

 

少し、時間は遡り。お昼。空中庭園とは別の公園。こちらは薬局が近くにあるからお弁当を食べてから日用品を買うのに都合が良い。水場が在り花壇もあり、森感を味わえるベンチもある。少し感覚的に開いて眺めると、大きなクスノキが「先輩」という感じで佇んでいる。別に見えたり具体的に感じたりということではないのだが、見上げるとなにやら凄い。明日撮ってみるか。いや、心の赴きで行かない可能性もあるが。この凄さは言語化しても写真にとってもあまり伝わらないと思われる。なにせ僕自身もあんまり良く分かっていないもの。

 

で、想ったのが、中道(悟り)は都合の良い涅槃みたいな「あと何もしなくて良い」という楽ではなく、舵取りが必要な日常生活と一見変わらないなというところ。中身から見える世界はほんとに今までこうだったっけと同じものが別に見えるのだが、この見え方は説明できるものでもない。でも表現方法はある気がする。

 

キルケゴールさんもちょうど良い。自己自身がなんであるかを忘れるように社会に削られて丸くなる方が楽で、寧ろそういう人の方が人間であるとみなされる。ほんとは自分自身を凝視することが最大の冒険であるとのこと。

 

自分自身を凝視することが冒険であるって真理をついている。自分と対話したり眺めたりして返ってくると、世界の見え方が違う。個人的なところで言うと、人がより好きになるというか、エゴ的な意味で人を捉える必要が無い。

 

ちょうど昨日、エゴの話を書いていたが、エゴが幻想だとしても、具体的な他人の中の1人を考えるときにはエゴを基準としないといけないのでは、と考える自分が居る。だって、全体として捉えるのであれば具体的な人は捨象される。もちろん類型ですらないところで。

 

でも、そうでもないらしい。自分がただ在ることは自分の像を意味と価値を入れずに生きることであり、他人もこれで捉えれば、具体的な個人であろうが類型だろうが同じこと。注視してしまうのは、自分にとって意味ないし価値がある可能性がある人物であるということではないということで、ただ在るその人の存在が気になったり愛でたくなったりしているだけ。

 

慣習的な意味合いで高く評価されることにちっとも響かないのはそういうことだったのかとなる。逆からすれば僕もそういう意味合いで世界を捉えていた。

 

もちろん、意味とか価値とかという観念も日常生活を送るにつけ有用な道具だとは思う。でも、それはあくまで共同幻想であって、そのものではない。そういう風に生きるものだって教えられてきて倣っているだけ。

 

ただ、意味とか価値に重きを置かないというのも不十分。昔読んだ実用的論理学の本で、私は流行には囚われないって逆張りするのは、流行に囚われているのと等しいとかなんとか。

 

最終的には、慣習的な共同幻想における意味があるとか価値があるとか正しいとか悪いとかのフィルターを全部外したところで生きるということになる。僕でいうと、これをしたら善人に見られてしまうという無駄なブレーキを外していく試行。もちろんこれをしているのは悪人(例えば毎日飲んでいるとか)も含むが、別に外に現象化することでもない。

 

毎日この文章を飲みながら書いているって言ったところであんまり信じられないだろうし。

でも、誰かの世界観壊したところでなぁ。

 

ここからさらに進むと、自分が誰かの人生劇場に存在している意味もどうでも良くなる。

今のところ、この人の人生劇場の中で一緒に過ごしたいなという人が現れてないのだろうなという感じで良い。僕が相手の存在を想うことと連動してない勝手な選別がされている。

 

長く過ごした恋人さんと最終的な別れの時、「もう会えないんだよ」って言われたのだが、そのまま新幹線に乗って帰った。その後いっぱい泣いたし、今でも幸せになったら良いなと想うがそれと現実は別の話。未来が想像されなかった。

 

まぁ、僕はどこでも生きていけるから、アリではあったのか。

誰かと生活しながら自分で在ることは今ならできるはず。

 

そんなこともどうでも良い話。

 

コントールしないようにする自分で在れるということは、他人もそういう風に捉えるということだし、受け入れるとか、諦めるとかの観念も余剰になる。

 

啓発本が言う、意志は現実化するのもなんか変。素朴な自分と一致した現実が起こるという意味なら分かるが、いや、そういうものなのか。

 

僕としては、自分の世界で起こることに意味付けをしないということを突き詰めれば結局何か良いようになるという感じ。ここには意志というか志向はない。もちろん勝手に自律的に良いことがあるなんてことはない。

 

勝手にさせていると無意識が収集した当たり前の経験則が継続されるだけ。

 

あくまで僕の話だが、経験則に依拠しないようにして人を捉えた方があるがままが捉えらるのではという試行。人間関係はやり取りしないといけないとか、やり取りしているから近いとか、幻想でしかない。

 

この素朴な基準は割と今後の基準にして良いと想う。

どれだけ僕のことを良いように評価してくれていたとしても、それが経験則の中での他人だったら、僕は切るのだよな。他の人でも良いでしょうって。

 

冷徹に見えるかも知れない部分だが、僕にはそういう意味合いの情がないのは確か。

止める気はない。

 

素朴に他人を捉えるためには、まず、自分の素朴を凝視しないといけない。

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢と世界を。