相対と絶対

 

 

地に足をつけなければなぁという想念がふと浮かぶが、いや、十分鮮明に生きているよな。努力で突破できなかった諸々の壁を素朴が楽しんでどうか眺めている。

 

 

縁のことを考えながら眠りついた昨晩。共時性も大事だが、むしろ在るようにしか在らないものなのかもなという見解。存在同士の磁場というか引力のような力が作用している領域で、意思的な行動と観測される現象はその結果(例えば雨が降るとかと同じ)に過ぎない。これを運命という言い方にするのはろまんちっくな必然主義だが、僕の中では全てが外から来る力ではないとしている。引力は自己という存在から生じている訳で。引き寄せの法則はここから説明できそうだが、これも言い方の問題か。

 

ここから、世界のほとんどは言い方に過ぎないのではという整理方法が浮かんだ。

 

しかし、カワウソ可愛いな。人が動物を愛でるのはおそらく動物の中にあるがままの生を見ていて、ある意味憧れているからだろうな。人間は社会性に修正されていてあるがままでないと思い込んでいる。これも含めて全部あるがままで良いのだろうな。

 

とか思索している通勤の道中。コーギーのまるまるとしたお尻に行く手を阻まれる。飼い主にはすみませんと言われたが、ごちそうさまでしたと返したい心持ち。コーギー動画も見ている。はなちゃんかわえぇ。

 

昼ご飯は空中庭園。日差しがぽかぽかして気持ち良い。クスノキ先輩はお預けだがそうそう居なくならないのが大木。煙草を吸って職場に戻っていると、スーツのお姉さんに声をかけられる。なんぞやと思うと、資産運用についてのアンケートに答えてくれませんかとのこと。

いいです(運用する程資産がねぇ、きっと統計的な参考にもならねぇ)。スーツで装っているからそこそこ資産蓄えていると見えるのだろうか。価値がない無形の資産であれば頭の中にあるが、「価値の無い資産」って言語的に矛盾している。資産は価値が有るのが前提だし。市場価値が無くても人格的価値が有る、なかなか無理がある観念群よな。

 

仕事の女子トークを聞いているときの発見。時間の観念性。時間を惜しんだり長く感じたりするのって、今の時点ではない時間の尺度をわざわざ持ってきているからなのだろうな。夏はどうのとか冬はどうのとか、楽しい時間と義務的時間とか、全く客観的尺度とはしていない。客観的で厳密の尺度としての時間の流れは、何とか分子がどうのこうので、スカイツリーの頂上だと何十億分の一くらいの誤差があるらしいが、そんな時間の誤差なぞ体感できるものではない。

 

そもそも瞬間とか時点とかも観念的な道具で、瞬間を意識した瞬間にはその瞬間は終わっているし、点という形はあっても点という観念は現実に存在しない。時間とセットで人生を過ごそうとするのは、鮮度が悪くなる。ちゃんと生きているとき(これは時ではなく条件みたいな意味の「とき」)には時間は意識されることはなく、地に足が着いたとされている幻想に戻った時に、時間の尺度で再計測される。

 

別にこれが悪いという話ではなく、共通の尺度で生きていると思い込むことは楽だよなというだけ。僕はそこのぬるま湯が駄目だったらしい。この感覚の証明は書を読むことによって可視化されていく。

 

例えば、今在る社会的共通項を客観的な正しさみたいに捉える風潮。法律は時代によって移り変わってきていて、今まであったルールが今後どうなるかは分からないのに、法律に基づく思想を善とみなすとか、どうなのだろうな。知らないからこそ善と思い込めるというのはあるのか。

 

女子トークでなにやら興味深い話があった。ニュースは見ていないから詳細不明だが、聞きとれたところから読み取ると、死刑囚が国家賠償請求訴訟を起こしたとかそんな話。いつ執行されるかの報知がないのは基本的人権の尊重を犯しているのではとか主張しているのだとか。

 

これを素朴な善悪観で言えばけしからんことだとなるのだろうが、そんなことはともかく、僕が気になったのは、罪を犯した悪性に対する見解というより、基本的人権の尊重ってあんた税金納めてないやんみたいな発言。ここは素朴な人権観の本質を突いてそうで興味深い。

 

建前上は、人は人であるだけで価値があるとしているが、個人の価値は社会の維持に寄与しているからこそ在るのだという観念。社会に上手く馴れている人にとってホームレスは人とは見えないのかも。社会の維持に寄与しなくても人である以上尊重しましょうというのは建前でしかないのか。だから、人を観る時も自分にとってどうかでしか捉えられない。

 

もちろん犯罪者を擁護している訳ではないが、刑法ルールに準ずるなら犯罪者に石を投げて良いことにはならないはずというだけ(自分に罪がない人だけ石を投げなさい)。私情で裁くのであれば苛烈化するというより、気分の匙加減でどうとでもなるから、どういう行為が犯罪だと決めて、それにはこの程度の罰を与えましょうという刑法以外でもルールを決めることを含めて国家に権限を委譲して社会を作りましょうというのが社会契約のコンセプトだったはず。

 

なんで悪いこと()をした人を無遠慮に叩いて良い風潮になっているのだろう。民度低くなってないか。表現の自由に含まれる領域ではないと思う。一般的自由の範疇か。ここは細かいので省略。

 

この社会に馴れることについてはキルケゴールさんが書いていた。自己自身でなくても良いという楽さは、自身で在れることが無い絶望とセットみたいな。たしかに何にも依拠できない自分の基準で生きることは不安で仕方がないが、不和と不安とどちらを選ぶか。不安は突き抜ければ透明な世界になるのだが、不透明にしたまま自分と向き合わずに一生過ごすというのもアリだと思われる。時間の尺度で考えれば今までの自分と思って過ごしていた時間が無駄になるのはかなりの痛手だろうし。

 

ほんと、薄情というかサイコパス的な文章になっているが、僕は善悪の二元論の宗教の信者ではないということ。一般的な正しさも、素朴な自分が想う正しさもあくまで何かに倣ったものでしかない。もっと言えば、おそらく具体的な誰かが正しいと言ったことの集積から生まれてきている感情の問題。

 

そう、善悪は道徳というより感情の領域だと思っている。

他の言葉に言い換えられるかというの探求しているのが刑法学。社会を害する行為を止めるように促すということを主眼としていて、この害は具体的に言語で説明されないといけない。

 

個人的にはこういう話、高尚でもなんでもない生活の一部のこと。何も考えてないし、相変わらずなんにも知らないという自己観。何か僕に教えたいと思う人があればウェルカム。笑

 

冒頭に戻ってきて、努力で突破できなかった壁諸々。

努力という言い方って、そもそも論として、自分が決まっていることが前提とされている。○○である自分みたいな属性がまずあるみたいだが、そこを決めてしまうと、自分のことも固定的で分離した存在としてしか捉えられないし、他人ならなおさら。

 

僕がしているのは、まず自分がそうであると決められた属性を引っぺがすこと。

1例で言うと、ずっと口下手だと評されてきたが、剥がしてみたら全然そんなことない。できないではなく、してないだけだった。ちゃんと聞いてくれる人とは話す準備はもともとあったみたい。もっと言えば、会話も別に嫌いではない。言葉の交換というより存在の交換みたいな感じ。遠慮は要らんかったな。自分のことを話す訳ではないが。

 

別に話したい訳でもないのはまずある。

 

だからとて、文章も読書も逃避でもない。

個人にとっての現実は、どの枠でも同じこと。何処に逃げたところで自分の存在からは離れない。

 

この自分で在るという存在と、自分が自分だとしているエゴは似て非なるもので、説明がしづらいところ。エゴは相対性の中でのことで、存在は絶対性だと言ったところで、絶対性も相対性とセットだし、絶対でもなく在るものなんて無いようなものだろうし。

 

これが縁起と繋がるのだが、言語化できる気がしない。

書けば書くほどスピリチュアル的になりそう。

 

スピリチュアルが良くないとは言わないが、巷の本は現実との相対性で書かれている感じだし。

 

まぁ、僕が捉えている人は、存在的な意味合いで良かった。

 

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。