可能性

 

 

アウトプットは外に出すことと、外に出ること。

 

ファンタジーちっくな夢。森の中の集落に住んでいる。転んで落ちた川辺の空間が細い木というか蔓をより合わせた籠のような足場。あれ、なにかここ見たことあるなと夢の中でデジャブを感じ、記憶が呼び起こされる。あまり良いものではなく、半身に分裂させられて半身同士制約がかけられていたみたいな。今想うとドラクエ6みたいだな。アレンジされ過ぎだが。

 

さておき。

 

時計を見ながら休日を過ごすのはあまり良くないらしい。次の機会では時計がない時間を過ごしたいところ。スマホは触らなければ良いだけだが、PCの時刻って非表示にできるのか? あ、調べたらできた。快適。日記時間も体感でやろう。笑

 

アウトプットについて。宵顔さんに朝の挨拶をすることで思いの外すっきりしてしまった。外に出すことはもちろんのこと、おそらく世界の外に出ることも足りていない。もっと色々触れに行かないと。バレエ、絵画、落語、紅葉、演劇、もろもろ。体感ではなく読み物として。いや、体感も読む道具の1つだが。

 

読み方は教育において必須だと書いたが、これって案外というかすべてに通じる難しい能力だ。客観的な文意を読み取り方は現代文の評論でするが、言葉自体が数学とか論理学における一意性がある記号ではないから、何が読み取れるかにもばらつきがある。テスト問題は客観的な一意的な意味合いではなく、出題者がどう読み取って欲しいかを汲むことだし。小説でこれをやるのは悪癖でしかないが、まだやっているのかな。

 

英語の題材もほとんど評論みたいなものだったような(苦手だったためどういう文章だったか全然残っていない)。

 

文字として読めるようになることと、文意を抽出することはかなり離れている。でも一般的には癒着している? どうだろう。文意の抽出ではむしろ書いていないことの方が大事な気がする。

 

「数字で遊ぼ」という大学数学の漫画を読み返すと前に読んだより読めるようになっていた。小学生に教える下りで、割り算は逆数の分数の掛け算と等しいということが説明されている。個人的に僕はこの辺りからつまずいていてその先は暗記に頼ったばかりにやり直す羽目になっていると思っている。でも、読めるようになったらしい。抽象的な理解。

 

もともと算数は身近な現実を数として抽象化するという現実と繋がっている領域から始まるが、中学校になると現実から離れたところで考えてそれをまた現実に戻すということらしい。知識としてはもちろん知っているが、何か腑に落ちた。明日の仕事中、暇があったら-1×-1=1の証明を考えよう。数学楽しい。考え放題じゃないか。

 

でもなく、これって世界を読むこととも通じてないかというのが本題。数式アレルギーは良く聞くが、自分の人格にそぐわないものを受け付けないアレルギーについて。

 

読むことはまずひらがなを覚えるところから始まると言えそうだが、その前に現実を言葉にするという言語体系が確立される。固有名詞から。車はぶーぶーとか犬がわんわんとか、現実で体感されているものには当てられる言葉があるということを知って、言葉のカタチを覚えて、その連なりの意味を読み取れるようになる。まぁその前に言葉の音を音読で体感するとか諸々の段階はあるが、あくまでここは数学でいうところの算数の部分。

 

現実の自分(とされているもの)から離れたところが読めないのは、芯の部分で言葉は本当は現実には存在しないということが理解されていないからではという仮設。当たり前に文章の文意を読み取っていると思い込んでいるが、その言葉は発話で扱われる現実的な準物質みたいなものとしていて、それ以外は感得されない。

 

これはアニメとか小説の読み取り方にも繋がっていて、完全に離れたファンタジーにも何か現実との整合性を求めてしまうところとか。その世界の中での整合性なら分かるが、普通はそんなことしないとか、そうならないとか、何をとんちんかんな、みたいな。

 

常識は知識ではない、現実的な空気感みたいなものだろうなぁと、社会通念を法学から学習しようとしていると現実離れするのではという疑念が起こったときに想った。

 

識字率がどれだけ高まっても、この読み方を教えてくれるものがなければ自分を基準としてしか文章は読めないよなとなる。いや、別に世を憂いているとか高尚なことではなく、読むの本質は、自分とは引き離された文意を抽象(空想)世界で読んだあと、現実に持ち帰ってくるみたいなこと。だから都合良い終末とかという意見は起らない。ハッピーエンドでないと許さないという漫画の感想を見かけたが、許さなかったらどうなるのだろうと想う。

 

人のことはどうでも良く、なるほど、僕はもともとそういう風に世界を読んでいたのかというだけ。だから生活圏でもなく会ったこともない人の幸せを勝手に祈ることができるし、本を有効活用的に読まない。

 

ただ、これとは別に、思考を有効活用しなければなと思う。よりより何かを選ぶみたいな思考ではなく、あるテーマを任意的に決めて頭の中で展開させるという意味。思索からもう少し踏み込む感じ。自分の中の思考ってあんまりいいイメージがない。これも話して考えて良い。

 

良いイメージがないといえば、人を知ろうとすることも諸刃の剣みたいな切れ味。

ここに現実的な自分との繋ぎ目があれば、親しいし嬉しいことになる。でも、単なる無関係の第三者が自分の個人情報を知りたいとしてきたら気味が悪くなるのが一般的感覚だと思われる。悪用されるかどうかの前に、その知りたさの根源はなんなのか分からない得体の知れなさ。

 

これって、常識的に考えると割とすんなり理解できる。親しさの指標がお互い個人情報を把握していて、それ自体が存在の近さになるから、その中でより個人情報を収集することは善であり、知りたいということ自体が生活圏にしたいという欲求からきているとされている。

 

僕の素朴はこの辺りもよく分からなくなってきていて、存在としての近さは果たして相手が生活圏にいて情報をいっぱい保有していることで良いのか。いや、もっと根っこの部分でないかとか。長く過ごすことの親しさは、存在の近さではなく、安全とか安心の部分で、現実的な物質寄りの観念。

 

我ながら何を言っているのだろうという感じだが、素朴な感覚にはそぐう。

僕は人を読むときに自分が安心か安全かとかで見てないし、ただ相手がどうであるか。

 

まぁ、問答的に知ったところで意味はないと思っているから質問攻めとかはしないが、あわよくばいっぱい知りたいと思っているのは確か。

 

対自分に、貴方のこと知りたいんですって面と向かって言われたらどうだろうな。言われたことないからクラっとくるかもしれないがそうなると、どう知りたいんですかってソクラテスメソッドになりそう。

 

近いからというか価値が高いから覚えていられるという観念もあんまり信奉していない。

残すかどうか決めているのは意識ではないし。

 

そういえば、キルケゴールさんが人は可能性にまどろむみたいなことを書いていた。僕も存在を可能性としてみる立場だが、ちょっとずれている。○○かもしれない自分という意味の可能性は確かに魅力的。例えば宝くじがうっかり当たってしまうとか、逆玉の輿とか、外からやってくる可能性。

 

ただ、僕が言う可能性は、自分がどう在るかという意味合いで、外から来るものではない。

自分であることの必然性が本質だと言っていたが、必然性には当然可能性も含まれている、可動性といった方が適切なのかもしれない。

 

こうやって考えてくと、都合良くなるようにするということも1つの可動的な道具に過ぎないとして良い。あえてしないようにしてきた節はあるが、別にしても良いんだよな。

 

自分を決めなくて良いというのが可能性の本質で、自分が他人になる空想にふけることではない。僕は自分以外の誰にもなりたくないし。少なくとも今世では。

 

僕が文章書かなくなっても存在として捉えてくれる人はどれだけ居るのだろうか。

 

はい、おやすみなさい。

 

良い可能性を。