変なの

写真

 

 

クスノキ先輩の佇まい。一日中曇っていたのに撮ろうとした瞬間だけ後光が差す。いただいている何某をお裾分け。(できたのか?)

 

さておき。

 

風は強いが比較的暖かい。風力で金木犀の花が一挙に落ちて、オレンジのカーペットを作っている所と、とこから飛んできたのだという一欠片と。どちらも風情がある。

 

街はイルミネーションの準備をしている。明るいところで見ると赤が虫の集合に見えてグロテスクなのは僕だけだろうか。もう11月かと職場でも雑談しているが、そりゃあ終わった10カ月と比べたら早いに違いない。何もしなかったとかも聞こえてくるが、何をしたら何かしたと想えるのか。非日常のイベント事、ありうるな。行為ではなく、行動と意識できるものが何かしたという定義。

 

毎日色々していると僕が想うのは、個々の行為を何かすると捉えているからか。本日も色々した。昨日書いていた、マイナス×マイナスがプラスの証明を考えるは、思いの外あっさりできた。あっさりし過ぎてほんとに証明になっているのかというところが気になる。ちょっと書いて良いかな。数式アレルギーの人は点線部分を飛ばしましょう。

 

 

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0×0=0(当たり前) 

1-1=0というもう1つの当たり前を代入し

(1-1)×(1-1)=0

これを解いて

1+{1×(―1)+(-1)×1}+(-1)×(―1)=0

ここで、マイナス×プラスがマイナスであることを当たり前とすると

(1―1)―1+(―1)×(-1)=0

もう一回、1-1=0をもってきて

0-1+(―1)×(-1)=0

式の前にある-1を移行するために両辺に1を足すと、もう一回1-1=0が出てきて、最終形

(―1)×(-1)=1

 

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なんかマイナス×プラスをマイナスにするというところが変な感じ。もうちょっとすっきりさせたい。今度は記号で考えよう。要は、マイナス×マイナスがプラスになるのは数学的な証明ってもともと決まった計算法則と整合しないということであって、わざわざ現実的感覚に引き直さなくても良いのだがということなのだろう。

 

ほんとどうでも良いでしょう。僕はこういうものを思考としておいている。数学で考えるのは社会を考えると違って、誰にも害がなさそうなのがとても良き。社会だと誰かの中の当たり前は矛盾しているとかになりかねないから、注意深く言語化する必要がある(あんまり気にしてないが)。

 

この誰でも肯くしかない当たり前から思考を始めるというのは、なんというか世界に発したり世界を読んだりするところでは大事なことよなぁという感じがあり、全般的に視界が拡がる。

 

村上さんが「風の歌を聴け」で、小説家とは世界との距離を自分のモノサシで測ることだというような趣旨のことを書いていたが、小説に留まらない文体に通じる。譲歩してそうで結局自分の中の当たり前に持って行きたい文章と、自分の中の当たり前が当たり前とは限らないかどうかは書きぶりで分かる、というかそんな味がする。

 

で、人の文体そのものも方程式が内在している。ここでいう方程式は世界を解く道具というよりは世界そのものを簡略したカタチみたいな感じ。本の師匠に「貴方は数式のような文章を書くようになる」という予言を賜ったものだから、方程式のような文章、文章における方程式とはなんだろうというのが頭にある。

 

文章において論理的に書こうとすると全然単純化できないから、論理的に書くようになることが数式のように文章を書くということにはならない。論理的に書こうとすると単純化できないって論理的な文章は分かり易いだろうという思い込みがある人にはごめんなさい。しようとすると、いちいち自分が扱う言葉を定義するということが必要で、自分が扱っている意味が当たり前にはならない。一般的には接続詞とか文法法則に従って書かれた文章が論理的なのかもしれない。もう少し厳密な話。

 

厳密な文章は哲学書になる。厳密になるほど読みにくい。厳密性は解釈の余地なく一意にするということだし、一意にするために遣った言葉にもそれぞれ意味のブレがある訳で、埒が明かない。

 

こういうブレを繋げて、接続詞がなくても意味が繋がっていくのが数式みたいな文章なのではという試行。本日ここまで接続詞全く使ってない(たぶん)が文意は通じるような。

 

法律文書では接続詞によってメリハリをつけるということをするとしても、普通の文章でそれをしなくても良いし。これを劇評とか書評でも貫徹できれば面白いな。

 

やれやれ。

 

法律といえば、民法認知心理学的に考察して、何故事例問題が解けないのかという文章があって美味しかった。曰く、人は抽象的な概念を覚えるのが苦手だから現実と連動させられないとか。僕は民法を勉強し始めた頃現実的な知識としてやろうとしていた。抽象のままで良いのかというのはとても気楽。

 

知識は未知が起こったときに対処できるようになるためにあるのだから、既知に依らなくても良い。

 

僕を読んでいる人の中で僕が書きたがりと思っている人はどれだけ居るのか知らない。覆されたとしたら申し訳ない。僕は別に書きたがりではなくて、書かれた言葉という媒体は可能性としての読者がいないと在りえないから。僕の文章を読んだところで、僕の本質に届くかというと、微妙な感じ。

 

存在の定義ってなんのだろうな。この具合が人(自分を)なんとしているかになるはず。

僕は物体としての人を存在としていない感じ。

 

会話も物体的だなと思う。当たり前だろうと言われたらあれだが、話したがりの人というか会話自体が、発話者がどうであるかを前提としている。何をしたか、何をどう評価するか。全て自分のモノサシで、他人のモノサシは箸休めくらいな意味しかない。

 

僕はこれでも自覚的にまぁまぁ人と話すのは好きだと思われる。ただ、僕が話題にしたいのは僕のことではなく、僕とは離れた世界のこと。例えばクスノキ先輩の勇姿とか、誰かの気遣いとか、キルケゴールさんは現代人のことを書いているとか。僕が僕で在ることは誰かに説明して承認されるようなものではない。

 

これと繋がる違和感。人が自分に対して何かをしてくれたことをインターネット世界でおおっぴらにするのって、相手の存在をほんとに捉えているのか。奉仕(まではいかないにしろなんか変)してくれる人が居ることで自分の存在を保っているのがなんとも言えない感じ。どういう風に生きている人種なのだろうと。

 

いや、これは、全世界に公開している意識ではなく、単に内輪であるという感はあるが、仕合せである自分を公開して何かを摂取している感もなくもなく。

 

まぁ何を公開するのも自由だし、見なければ良いだけ。

 

こんな話はどうでも良い、とはならず、何か類型的な幸せに引っかかっているようなところはあるのだろうな。絶対無理なのに。いや、これは結果的に幸せに見えるようになっても良いという試行対象の領域ではある。

 

現象としては変わらないが、中身は違う。

 

僕は会話を重ねた人が自分と近くなったっていう実感的経験則がないのだよな。

最初に感じた近さのままで重ねるだけ。ここも。

 

会話とか生活圏という物理的なツールは情報が増えるだけで、一向に近くならない。

まぁ、近かったらどうなんだという感じだが、感じが違うというだけ。

 

我ながら全然話題尽きないなぁと想うが、書くことで自分の存在がどうこうなるとしてないからなのだろうな。

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢を。