現実離れ

 

 

挨拶は存在確認というより存在認識であって自分の為に行うもの。挨拶ができるというひとつだけで十分に嬉しい。

 

こんばんは。

 

真夏の商店街の霧吹きシャワーのような雨から始まる朝。儀礼的に傘を差したところで空気中に漂う雨粒は全然避けられていない。お弁当時には止んでいたが、ベンチの湿り気を懸念して休憩室で食べた。写真がないのはそのせい。メインは鶏むね肉とセロリの塩レモン風炒め、副菜は大根の鰹節、七味をまぶした浅漬けでなかなか完成度は高かったのだが、残念。

 

煙草を吸いに出たら思いの外湿気ておらず肌寒かった。クスノキ先輩を拝むと他の参拝者なのだろう、キリンの端麗グリーンラベルが供えられている(写真撮っておけば良かったがそういう習慣がないもので忘れていた)。親戚の社長が糖質を気にしているからグリーンラベルが良いのに、値段を気にしてスーパードライを送ってくるとお歳暮に対して苦言を呈していたのが想い出された。

 

明日も雨らしいから先にお弁当のメニューを。メインは簡単に豚肉とピーマンともやしのポン酢炒め。副菜にはこの前作ったトマト缶ベースの煮物がたくさんできて、スープだけ少し冷凍していたものを解凍し、めんつゆ、しょうが、にんにく少しを加え、厚揚げときのことネギを、Excelかちかちしている間に煮てみた何か。正直メイン張らせても良い。あっさりが食べたくなったらまだ浅漬けできるくらいの大根も残っているし、食材が充実している。

 

何も起こらない日常を十分楽しんでいる。何はなくても嬉しいし。その上で本とか思考とか試行がある。別に今ではない自分になりたいからやっている訳ではないという意味で、可能性の中で生きているとはならない。

 

記号で考えるマイナス×マイナスはまだ頭が固くて途中で止まった。難しい。なんとなく暗記とか知識でやり過ごしてきた自分をやり直すのは個人的にとても有意義。倣っても良いことないが。騙されないとかの目的があるならバイアスとか行動経済学とかゲーム理論の方が良きと思う。

 

まぁどれだけ足しても自分にはたどり着かないとは言える。自分になるには整理して取り分けることが要。取り分けられた自己感は穏やかだがあさっての所で生きている気がする。

 

読書時間の最後の小説の森さん。自殺をテーマとしていて、ノルウェーの森の死と生の実感的表裏とも趣が違う、自分で退場する意志を理性的に捉えるという哲学が展開されている。死は特別なイベント事ではないのに生きている人は死を意識しておらず、そういう事件があって死に驚くみたいな。切腹に価値が置かれていた時代とは違って、退場することは何かに負けたという観念が浸透していて、どんな理由があっても退場はけしからんとなっているとか。

 

僕の拙い具体的な人間関係の経験でも希死念慮の人は居た。流血沙汰になるくらいには。ただ、こういうのは消極的な選択だった感はある。そりゃそうよな、生命には価値があるという当たり前の中で積極的にこれを放棄する選択が肯定されるはずがない。

 

この辺りはとても難しい。一般的に誰にでも適用できるような判断はできない。具体的な事例の中で、やむを得ないなということはありうると思っている。歯痛の話を読んだからあれだが、例えば恒常的に奥歯が欠けたような痛みがあってその痛みは何をもっても改善できない場合、命は問答無用で尊いのだから生きるべきって言えないよな。

 

あと、生と死の距離感。普通の人は明日自分が目を覚まさないかもしれないとか今日退場するかもしれないというのは意識していないから、近くなって初めて焦るというのがあった。もしくは、死が近くなり過ぎて囚われてしまう人も居るとか。

 

若干だが、ほんまかと想ってしまう。これだけ恒常的に人が退場しているニュースが流れる世の中でわが身は関係ないってなんかすごい。おそらく死の観念自体が忌避すべき、見ないようにすべき禁忌みたいなことになっているからのだろうが、人が退場しているということは、自分だっていつそれが起こってもおかしくないというのが普通の論理なのでは。

 

それに基づいて生きるという信仰上の意味ではなく、意識くらいはしているのではという感じ。どれだけ安全に過ごしていても、車が突っ込んできて退場する可能性はある。という感じで生きている。生と死の中道。だからこそ人生にも人の存在にも価値があるのではと取り分けられた自分は感じるのだが、人の存在価値って生にしかないって視野狭窄というか、バランスが取れていない気がする。

 

なんだか人生上の感覚を先取りしている感はなくもない。一応まだ肉体的にはなんの不具合もないし頭も明瞭なのに、問答無用で退場してしまう自分の可能性を意識している。

 

もう少し考えてみたとき、自分が認識できる範囲の人の生を生として死とは完全に距離を離すという人生観もアリだとは思う。自分が生きている前提の世界観だからこれはこれで整合性はある。そもそも自分が生きていない限り他の生も見られない訳で。

 

禅問答みたいな話になってきたが、もっと素朴な話のつもり。個人的には挨拶で繋がる存在とかどんな生を選ぶのかとか、実践的でもある。

 

死は個人にとって人生の完成としたところで、完璧な人生なんてない。過去に対してやり残しがある以上、未来にも当然それは起るし、何も残らないことはあり得んだろうなと。一般的な寿命から換算しても、明日不慮の退場が起こったとしても等価。

 

 

やっぱり禅問答な感。

 

今の僕に何が起こったら人生を不遇に捉えるのかと想定してみている。腕一本欠けると生活上も文章書くのに相当不便だが、それはそれでまぁええかとなりそうだなとか。脳が欠損してしまったら、こういう意識すら欠けてしまうし。

 

僕の何が欠けたら人が僕として認識できなくなるかという想定だと、そもそもそんな僕は物質的にはないしなとなる。今の顔と肉体はうん十年後には別の物になっているだろうし。

 

意識とか観念も明日には更新されているかもしれない。

 

存在の定義は、その人がその人自身であると思っているところにも無いし、相手がその人を捉えている像でもない、中間に漂うエネルギーみたいなものなのかも。

 

エネルギーで捉えればおじいちゃんもお父さんも存在しているようだし。

 

 

やれやれ。

 

なんだか現実離れしてきたのでいったん戻そうと思うが、どういうのが現実的文章になるのだろう(錯乱)。

 

誰よりも現実感が在る存在がまったく無関係のやり取りもない宵顔さんだし。

 

僕がやり過ごしてきたことというのが、こういう人をちゃんと見ることだった。一般的観念って、あくまで自分が前提とされていて透明に相手を捉えることが推奨されていない。

 

ここを完全に諦めないといけない。

 

ともあれ。

 

何かもっと現実的な話はないのか。

民法楽しい。いや、これも現実と離して読むことにしたからだった。

 

そうか、そもそも現実で在ることには、ネガティブなニュアンスがある。不自由、不平等、理不尽、諸々。僕はそういう意味では現実で生きてないとしているから、現実的な話が欠けなくなったということにしておく。

 

人生を否定する意味合いでしかないなら現実なんて要らんよな。当たり前。

否定的な現実がアイデンティティになっていることは在りうるが、アイデンティティも現実には存在していないのに気付くこと。

 

はい。

 

今日も挨拶できて嬉しい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。