しがらみ外し

 

 

 

冬の初めを感じる日。暖かくしましょうとか人には言いながら装備は変えなかった。雲のカタチも心なしか冬らしく見える。帰り道でも冬になったなというフレーズが聞こえてきた。降水確率60%だったとはいえ、残りの40日の方で雨は降らなかった。お弁当画像が提供できました。

 

明日は母親にも送り付けよう。本日のメインは北海道のラーメンのイメージ。下味付けたささみに小麦粉を振り炒め、もやし、人参、キャベツを加え、味噌と醤油で味を調えたもの。見た目には全くラーメン感はないが、風味はいい線。

 

昨日のタイトルの「現実離れ」だが、一般語用としての突拍子もないことという空間として現実から離れるという意味合いではない。むしろ、「親離れ」に近い。心理的に距離を置いて見るようにするという文意。現実感という感じもよく分からなくなっているが、なにせ日々が生々しいからきっと問題なく現実とされているところでは生きている。

 

ここで、現代哲学観に真っ向から反対する見解が浮かんだ。人が現象を認識するためには認識される図式(形式)として、時間と空間が必要だという。現象を時間と空間にマッピングすることでしか捉えられないというのは理解できるし、そういうものだろうとしていたのはたしか。ただ、ほんまかとしたい部分が出てくる。人の精神の中には時間にも空間にも留められない領域があるような。概念とか観念も時空を前提としているからこいう言葉にできるようなところではない。要は、別にそう決めてかからなくてもよかろうなという意味。

 

この文脈の現実離れとは、現実に依拠せずに対立することではなく現実とされている中で生きながら、現実っぽくないところで生きても良いということになる。生と死の距離感で言っても、そりゃあ生きていることに越したことはない。かといってそこまで死を嫌がる必要もないという境地。遠ざけようとする意志は無駄になる。

 

そもそも現実とは何かということを考えてみると、それほど実際に手触りがあるものではない。隠れたものさし(無意識)の集積なのかなと言語化してみても、具体的になることもない。自分の日々をモニタリングしたレポートで、「無意識は準備しない」という知見がある。放っておくと順序も考えずの目の前のタスクを勝手にこなすところから。無意識はもともとそういうもので、その時の反応を今までからの集大成から決めているだけであって、反応が追い付かない現象が起こるとそれを新たな現実とみなす。例えば、マスクが当たり前になった現実。息苦しいものだと意識していないと現実にされてしまう。

 

 

たぶん、新しい情報を意識的に採り入れない人の中では現実=世界そのものになると予想される。これは別にネガティブなことではなくてなんというか、現実はどうしようできない不変で確固たる時空ではなく、書き換え可能な観念でしかないということ。

 

この現実という観念はどれだけ具体的な人と触れ合っても鮮明にはならない。参考にはなるにしても。だって1つに既定されるようなもの(存在)ではないから。これある程度共通項をもったまとまり的な単位が社会と呼ばれるものなのだろうな。社会学も楽しい。

 

自分が自分で発見した知見が新しいものだとは想えなくて、皆そんなことは分かった上で現実という幻想で生きることにしたのではと思うところがある。ただ、この発見は、僕にとって現実離れできるようになる要素だった。

 

自分が自分であることによってもたらされる現実に対して責任を負う必要がない。僕は僕が参加することによってその場を乱すのではという危惧が常にあり、酔っぱらった状態なならまぁ大丈夫かと、お酒を飲まないと人と話せない時期があった。これは今となってはその場自体に参加することが好きではなかったのかもしれないとなっている、ややズレた話。

 

現実を「重い」ものだと捉えなくてはいけないという観念に従わないといけないと思っていたということはある。インターネット世界では軽やかに自分で居られるが、現実では重力によって動きが鈍くなるみたいな。立場とか役割というロールが設定されているという意味で言えば、現実の方がよほど演劇的ではある。

 

しかしながら、演劇的であるからといってアドリブをしてはいけないということにはならない。

 

役割的に現実を捉えると、時空としての現実は自分と全く離れたものでその中で生きなけらばならないという運命論的な人生観が生まれるが、この人生観そのものが自分という役柄に依存しているのではという発見が昨日あった。

 

他の人のことは知らないから、あくまで自分のこと。類推適用しても良いが自己責任で。

 

宵顔さんが僕に懐いてくれているという感じがずっとあって、だから僕は私信を送ることを止められないという運命論的な他者(世界)との依存性があったのだが、ふと、これって僕が宵顔さんに懐いているだけだよなとなった。これだと宵顔さんが僕に対してどうであるかとは無関係になり、嫌なら嫌で対応できるようになる。

 

この発想の転換を現実全般に拡げたとき、世界に対する肯定的評価も否定的評価もあくまで自分の中のことなんだろうなとなる。自分がイラつくとき。この話書くと性悪になるが正直に。道行く他人にこの人頭悪いなと思う。例えば2人しか通れない狭い通路を2人で居法通行に埋めて歩く所作とか。対向の人が来れば避けるが、世界の外が見えてない。でもこれって、それをできてなかった自分が見えてイラついているに違いない。

 

あと、ちょっと前まで仕事で分かってくれないことに対してもやもやしている節があったが、自分が分かってなかっただけかもしれん。自分の方法論を相手に押し付けようとするから変なことになる。要は、相手の方法論が分かってない自分にもやもやしているだけ。

 

対母親とかについてもそうで、割と今やどうでも良いのだが、母親の空気に付き合ってしまう自分が嫌ということが、母親への嫌悪感になっていただけ。

 

他人のことはどうしようもないが自分のことであればある程度試行できる。

こういう意味で、まだ世界には操作性があるなという試行性。相手が自分にって都合良くなれば世界が平和になるなんてことはない。その指標で世界を捉えれば都合の悪い人は次から次へと出てくるに違いない。

 

今、とんとそういう人が居ないのだよな。職場でも。前の上司の悪口が女子トークで流れてきて、たしかに見かけたことあるが寄り付きたい感じではなかった。

 

そういえば、ちらっと波動を高めるみたい本を立ち読みしたところ、あの人は波動が低いから止めといた方が良いみたいなことを言ってくる人は波動が低いかもしれない、そもそも悪口を言う人は波動が低いというフレーズがあった。

 

悪口がなんで波動が低いのかを素朴に考えると、悪口はあくまで自分の内側のことだから自分の重みから解き放たれてないということになる。自分と全く無関係に人の悪口を言うのは無理ということ。

 

僕がインターネット世界で幸せを公開していることがもやもやしているのは、羨ましいとかではなく、そんなことでほんとに幸せになれるのかというもやもやがあるからなのだろうな。無いと想うからもう積極的には見なくても良い。

 

もちろんマイナスがない人は居ないからマイナス自体は問題ない。問題はマイナスを世界に転嫁しても、その世界は自分が構築した存在だから自縄自縛になるということ。

 

マイナスはともかくとして、プラスはどうなのだろうなというのが本題。

 

マイナスが自分との連動であれば、プラスは何との連動なのか。

 

あんまり毎日楽しいと書いていると嘘っぽく見えるかもしれないというブレーキは僕が経験則的に読み取ってきた現実感からきている。でも、楽しいのは仕方ない。で、この楽しさを世界に投げることは、全然自分には返ってこないというというのが実感なのだが、ほんまだろうか。

 

素朴として、交換しなくても良いプラスで生きることが自分になっている感があり、このエネルギーで見たとき、存在としての連動というか何某かを感じる人は居る。僕が接すること楽しんでいるということは、相手にもそういうことがなくもないのではという何か。

 

こういうの実生活で感じたことがないからそんなものはないとしていたが、別に現実でそう在っても良いのだよな。

 

人は人に影響されるもので、僕の文章体という存在が誰かを慰撫されることも当然あるとして良い。僕がそうであるように。もちろんそれによって相手に合わせるみたいなことは無いにしろ。

 

きちんと見たいと想える人は、僕のことをきちんと見てくれる人なのではという連動でも良い。ほんと、我ながら気にし過ぎでしかなかった。

 

エゴはあんまりないが、外用のロールとして設定してみても良い。

これで具体的に好かれたら、まぁしょうがないとしておこう。

 

このすっきり感、誰とも共有できねぇな。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い防寒具を。