爆発

写真

 

 

早足で歩きながら撮った太陽の塔。3回目で初めて御神木とか古木と同じようなものを感じた。魂が宿っているのだな。感覚器も開いてきた模様。なんだかんだ入場までワンコインで行ける。とはいえ、物理的な距離と実際に行くかどうかは全く相関していない。むしろ、人間にとっては距離ではなく気分が移動エネルギーになる。

 

 

遡って時系列。

 

おはよう、挨拶を宵顔さんに送り付け一日を始める。カルピスを買ってきて飲みながら朝マンガ時間を終え、いつものように予約炊きしたご飯と、実家から送られて全然減らない焼きそばの袋麺を消費。昼に理容院の予約があったため、もうひと眠り。

 

理容院で結婚式の話を聞く。笑い顔で誤魔化していたが、話を聞くだけで泣きそうになったのはここだけの話。他人の結婚式って儀式めいている。儀式とは、非現実に陶酔されてしまうということ。笑い話になったとしても美味しくいただいていたのに、成功していたものだからなかなか。支配人に広告に載せて良いかって言われて承諾したみたいだから、そのうち検索してみよう(今ちらっと検索したところ出なかった)。

 

この理容院さんの良いところは、ぜんぶをてきとーに扱っていないところ。新ゲーム機を変えそうだとワクワク話をしていて、「僕は娯楽にしませんけど」と言うフレーズ。非現実を非現実として取り分けないことは大事。偶像を崇拝するのは娯楽にしかならないような気もするが、それはそれで1つの信仰体系で別のことか。

 

しかし、理容院のちゃんとした鏡で見ると僕の笑い皺半端ないな。

 

そうして。昼過ぎからぽっかり時間が空く。理容院さんに紅葉って近場で何処かありますかねと聞いたところ、万博公園が良いのではと言われた。個人的にはあったら良いなという本もついでに買いたかったから、できれば中心の方(大阪城公園とか)に行く予定だったのだが、万博記念公園駅のところにできた商業施設の中にTSUTAYAがある、ワンチャン流れに任すかという感じで決めた。

 

やや満員モノレールに乗っている時ふと、やっと均してきた精神が現実化してきたなという感じ。心と現実のラグが無くなりつつある。ここに自分が決めたという無駄な媒介は必要ない。説明ないし言語化としてはあるが、あくまで言葉の上ではそうなっているというだけ。

 

エキスポ。まずは本屋へ。お目当ての本は1冊しかなかったが、もう1冊はもともと予定したものよりうまみ。「AI時代の法学入門」でまさに僕が読んでいる本達と一致している。ベイズの定理も出てくるし。本の話はあとにするか。あと、無印良品で変な色のストーリー性がないシャツを買った。

 

万博記念公園も入口辺りは賑わっている。中はどうなのだろう。心配無用だった。敷地の広さでちゃんと一人になれる場所がある。内心で「うわー、うわー」と叫びながら歩いていた。この季節に桜とびっくり。名前が十月桜というくらいだから、見えてなかっただけだろうな。紅葉も綺麗だった。ただ、僕の目が感動を訴えてきたのはススキの集団で、どれだけススキ好きだよとなる。銀杏の黄色も良いし、土の通路に敷き詰められそうなどんぐりも。ひょうたん池の鯉。

 

個人的な話。通算3回目だから、1回目と2回目の痕跡と重って見える。あぁ、ここで長く過ごした恋人さんとこんなエピソードがあったなとか、直近の恋人さんとは云々とか。声まで再現されてしまう。こういうのが世界は自分が創っているみたいな説の論拠の一部。だから行ったことがあるところは純粋に見えない。全然悪いことではない。

 

でもこういう今ではない痕跡って、今の現実を至上とする価値観からすれば幽霊みたいだ。僕はこういう意味の幽霊も全部自分の世界としている。エゴから見れば記憶とされるはず。僕は記憶という観念を採用していないから、記憶とされているものとの距離は感じない。過去の自分だって自分の全部であって一部。

 

帰りはモノレールに乗りたくなくて街路を歩いた。この季節の日が落ちる前の午後の光景って、どこ歩いていても美だ。ゲートボールをしているおじいさんが、元気過ぎてボールをフェンスの下から外に出してしまったところに偶然出くわし拾ってあげた。今どきのボールはスケルトンもあるらしい。とても良き交流。

 

世界も自分の一部みたいなもの。生活を外から眺めるから良いのではなくて、別に僕は既に世界と繋がっているから特に価値ある内側を必要としていない。

 

ちょっと本の話。

「AI時代の法学入門」は、僕が法律実務家寄りではないところで法律を見ていたというを示してくれた。ちょっとだけ働いた法律事務所の面接の時に法律のどこが良いですかと聞かれたとき、日常の有事にならない部分をコントールしているところみたいに答えたらきょとんとされたことがあった。

 

有事で紛争を解決するという局面は、法による社会の制御の失敗だと書かれていて、うん、それそれと思った。僕はこういうそもそも論が知りたかった。こういう空気感は別に学問的なものではく生きていれば無意識に浸透するもので、この空気のメカニズムを引っ張りだして取り分けるのが社会科学なのではという感じだった。

 

例えば、民法をやっていると意思表示という概念が最初に出てくる。この意思とは法律上の効果を欲する意図みたいな定義でさっぱり分からない。いや、自分に意思があると素朴に捉えることができる空気に馴染める人はスルーできるのか。

 

何かを決めることを意思だとするのであれば、意識的な決定をあえて取り分けるところの意義が分からない。無意識でも日常的に何かを決め続けているし、これは意思ではないのか。

 

ここで問題とすべきは、人(自分)に意思があるという当たり前の空気感を発明することによってどういう社会思想的な効用があるのかということ。この認識で捉えると、権利には義務が伴うみたいな、個人であることの自責観が見える。選択のデメリットも個人が負うべき、それが個人であることだというような。

 

分かり易いけど、あんまり気にしなくても良いことのような。

 

あと、認識の概念もよくよく考えると、抽象的になる。「脳の中の幽霊」で言えば人の肉体感はDNAを次世代に送るための仮象と捉えているようだし、「思考のすごい力」だと、人は細胞膜によってコントールされているということになるし、腸内細菌によって気分が変わるとかもあったっけ。

 

行動経済学のバイアス論とかも含めると、自分が自分で在ることが確立していると捉える人にとっては存在が揺らぐのだろうな。

 

僕はたぶん生い立ちとは無関係に、こういう意味合いでの自分について疑問に思っていたから、人は自分であるという思い込みがあるという話を読めば読むほどすっきりしてしまう。

 

人に意思ないし意志があるという設定は、そういう風にした方が自他が分かり易いというだけの中間媒体であって、素朴な人にとっては余剰のツールだと思っている。何をするかを決めているのは、自分の意識よりもっと前にある自分。

 

あくまで僕のことに絞ると、僕はこの日記で承認されるべき自分が無い。世界に対して送り付けている感じ。宵顔さんに対する私信もそうだし、時間をかけていることに対して対価があるかどうかみたいに世界を捉えていないらしい。

 

人を内側の人と認めるみたいな話も正味どうでも良いことで、もっと色々やっておけば良かったなと思う。なんでそんなに自分に制限かかっていたのかが不明でしかたない。

 

こういう意味で、世界に送り付ける媒体を増やしたいとしているのだろうな。ホームページの方は毎日触ることにして、一つ目の記事のタイトルだけ書いた。「焦げた食パンの行方」。これを書くことは決まっていた。

 

イメージ通りにはいかないが、僕を知らない人にも投げられるようなところで書きたいと思っている。そうすると、全部虚構で構築された文章という媒体も投げ方の1つとしてはありなのだよな。小説へのハードルを下げる自己洗脳。

 

承認って、そもそもなんだろう。

在ることを認証することだとしたら、それは当人の世界の中だけのことで、範疇外のことは切り捨てられるのだろうか。

 

この意味で言えば、おそらく承認ではなく、視界の中に入ったくらいの意味でしかない。

「脳の中の幽霊」だと、視界の絶対性も脳が構築した仮象なのではという説が出てきて、もう大変。

 

まぁ、僕は全然揺らいでない。

 

明日は海と波の気分。

(これも書くつもりだったが、私信に移動するらしい)

 

おやすみなさい。

 

良い世界を。