言葉できるものとできないもの

 

 

真面目は悪いことではない。ただ、自然ではない。

 

 

口に含むと溶けていく黒い食パンを頬張る夢で始まる一日。晴れていて外で食べたにも関わらずお弁当画像が無いのは意地悪でもなんでもなく単にスマホを忘れただけ。ポケットWi-Fiだけカバンに入っていた。にしても、あまり不便を感じなかった。漫画が読めないというくらい。世界と自分の中を読めば良いから特に問題はない。自分の中を移りゆく像を眺めるのはなかなか趣がある。ついでに、図書館にも寄ってみた。痛いくらいの静かさ。ほんとに本が読みたくて来ているのだろうか。あまりきれいに本を読める質ではないため、貸出カードがペーパーユーザーになっている。

 

昨日疲れについて少し書いた。立ち読みで、安心についての本をめくったとき、自分を生きてないから疲れるのだというフレーズがあり、なんだかしっくり。関係にまみれていた時節、ほんと疲れてしょうがなかった。自分を生きるということもよく分かっていないが、少なくともあの時は自分でなかったと言える。これは単に僕の力量不足で、「まなざされる像としての自分」に流されたところと、「貴方は自分と同じくらい疲れるよね」という社会規範に流されていたところがある。

 

ふと気づいた。人って、自分と関係ない人とか現象がそんなに気になったりしないのか。色を付けずに世界を眺めることができない。そんなことあるのかと驚愕する。いや、でも僕も最近までそうしがちだったか。ただ見るために見るということはなかなか難しいことなのかもしれない。

 

仕事場のギスギス感が見えてくる。女性上司の派閥は若干浮いている。そして、女性上司が僕のことを「この人」と呼んでいるのが聞こえてきた。こういうのが人の怖いところ。暖かい言葉と冷たい言葉を場面によって使い分けていても、結局文体に出てくる。さらに上司の肌荒れがちな苦労人も大変だ。

 

こういう仮面でやり過ごすのが大人ではあると思う。仕事は好き嫌いでするものではないし。ただ雑談にはなるべく参加しないようにして自衛しようというだけ。このご時世のパーテーションが防具になる。まぁ使われるのだったら僕も使って良いよな。この辺りはきちんと社会人になりつつあると思われる。もともとプライベートでも容赦なかったかも。

 

こう考えていくと、疲れている自分というのも虚像なのかもしれないな。よほど残業しているならともかく、何か意義有ることをして疲れるという実感を求めている。例えば義務とか。

 

 

どうでも良いが、自分に向けられるまなざしのことをふと思索。僕は属性上もフォルム上もまなざしを集めるような物体ではないからまなざされることはあんまり意識されてない。歴史上もっとも集めたのは、10年以上前のハロウィンでルイージのコスプレをして街中を歩かされた時か。キャラクターに向けられる視線を中から感じるのはなかなか面白かった。

 

文章体としての僕の存在をまなざされることに対しては特に何も感じなくなっている。たぶん僕の文章の中で自分を見ているのだろうなと思うから。僕が見られている訳ではないし、僕を見せようとしている訳でもない。

 

冒頭文は、「線は、僕を描く」から。硯のすり方のところで出てきた。真面目にすっても隅の粒子が宜しくなく、力を抜いた方が綺麗に描けるのだとか。面白い。そして硯という漢字がやはり好き。

 

また、言葉の整地。

 

自然とは何か。自然の対義語が人工というのは中3辺りに習ったが、ずっと違和感があった。この後、人間も自然物だろうというのが森さんの小説の登場人物が言っていて、なるほど、そうだよなとすっきりした。もうすこし分解して、「自ずから然り」、操作がないこととしてみよう。ただあるがままの物理法則に任せること。これでもなんとなく分かったようで分からない。植物だって外界の影響を受けて連動的に存在しているわけで、操作と影響の違いは何だろう。

 

結局は、腐敗と発酵の違いのような人間本位の切り分けなのかとなる。要は人間は因果を捻じ曲げうる存在だから、人間が関わると自然は自然のままでは居られないという観念。難しいな。

 

では、人間における自然とは何か。自然体という言葉は、世界における自然とは別の意味で遣っているように思われる。力を抜くというのもそうで、真面目であるという状態は人工物というか、それが善いとする発明された人間の在るべき姿。働かざる者食うべからず。

 

人が自然になるというとは、こういう人工的な観念から離れた自分になるということであって、「何もしない」ということも、「義務をする」ということも意味しない。操作された観念から離れること。家事はしんどいとか、仕事はしんどいとか、娯楽は楽しいとか。ニュースは見るべきとか。

 

ちょっとメディア論。無意識からの操作について考えたとき、ただ眺める情報でもサブリミナル効果があるはずで、テレビを流し見するということは世界観にかなり影響してくる。操作されると言っても良いのか。見なくても生きていけるなんて思えなくなる。ほんとはフィクションみたいなものなのに。別にそういう仕事関係の人を否定する訳ではなく、客観的に起こったことを表すことは人には不可能で、ニュースに流れてくる情報は、何重のフィルターを通して加工されたものにならざるを得ないということ。これをほんとに現実にして良いのか、いや、それよりも自分の日常の一次情報をもっと見た方が良いのでは。

 

でも、子供に関しては学校で取り残されるから合わせた方が良いとは思う。

学校は大人社会よりシビア(そこしか場がないという意味)だから、親の意向で歪めてはいけない。僕も子供が居たらテレビはまだ見せると思われる。あくまで自分の世界と他人の生きている世界は違うし、そこを合わせようとするから色々歪む。

 

なんだっけ。

自然体になるのは、自分が自分であることをあるがまま受け入れる覚悟と技術が必要なことで、漫然と社会規範の中で生きているだけでは無理なのだろうなと想った。

 

社会規範と言えば、「AI時代の法学入門」で、裁判で言う「事実認定」という言葉は、「理論語」であるということが書かれていた。理論語とは、定義しないと扱えない言葉のこと。これって常識とか当たり前とかもそうよな、とふと。あと、専門用語全開の人とか。

 

マジックワードで扱えるという意味では、たしかに言葉は使い勝手が良い道具なのだろうが、人工物でまみれた世界観だと自然にはなれないだろうな。

 

仮に、僕が自分の文章の何処かの言葉についてこれはどんな意味なのですかって聞かれたら、ここではこういう意味で書いていますって説明はできると思う。それが良いことなのかと聞かれたら、無色ですと答えるが。

 

これも「線は、僕を描く」で、それを楽しんでいることが大事とのこと。

楽しいを言語化するのはとても難しい。これはマジックワードではなく、本来言葉に当てられない感じの総称だから。どう楽しいかは言語化できても、楽しいとはなんぞやは表わせない。良いとか良きもそう。

 

僕はとても人生を楽しんでいる。

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い楽しみを。