消化不良と昇華良好

 

 

 

讃岐うどんを久々に食べた。関西のうどんからすると弾力があるでは言い足りなくて、硬度があると評して良い。乾麺だとしても茹で時間20分弱って。四国の生まれだから馴染みがあり、昔外食に行く度にざるうどんを食べていたことが想起される。たしか薬味は生姜ではなくわさびだったような、定かではない。

 

消化にやたらと時間がかかったため昼は食べなかった。カルピスとお茶とカフェオレと水。時々チョコ。

 

 

外にはほぼ出なかった。買い出し時にすすきの空き地に挨拶したくらい。

 

 

中は良く動いたと思う。自己観の再定義。僕はかつて認識を更新していくことについて、『いまの自分が「気に食わない」からころころ変えてみている』ということにしていた。酔ったときに現れる言葉とかもそうだなって。これは理由付けが全然違う。どこかに決まった座り所が良い自分があるという想定自体が気に食わなかった。いまの自分が気に食わないかどうかは動力源にはなっていなくて、ただ、生きていることがそのままこれだというだけ。

 

とはいえ、決めていなくても、現象としてまとまった自分は在るのはたしか。別に手に取る必要もない。「脳の中の幽霊」は脳科学の立場から個人のまなざし(視覚)の分裂を示唆していて丁度良い。曰く「何を」回路と「いかに」回路というのがあるらしい。「いかに」が無意識の領域(あやふや)で、錯覚に惑わされないのだとか。よくある錯視で、同じ大きさの円の周りに億円の大きさによって見た目の大きさが違うというのがある。この両円の上に同じ大きさのブロックを置いて掴むように指示すると、同じ幅で指を拡げるのだとか。見た目の大きさが違うにもかかわらず。

 

視覚1つでも意識と本来がズレているのだとすれば、五官の集合である自分の体も怪しいし、社会規範とか感情とか経験則が総合しているエゴはもっと怪しくなる。もちろん怪しいから人は存在しないというのは飛躍が過ぎる。穏当な結論としては、自分も他人も決めなくて良いし、決まることも在りえない。決めるとすれば意志というか勇気を用いた決断の領域。

 

やっとこさ、ホームページが良い感じにカタチになった。できるだけそぎ落としたい意向にテーマが合わせてくれた。あとは投稿をするだけだが、ポケットWi-Fiのプラン上の速度制限で写真がアップロードできなくなって断念。読書感想文はその本の外観の写真の後に感想文を書くという様式が良いのかという感じ。なんだか、名前を付けることで存在していることになるキャラクター(イマジナリーフレンド、過去の自分)にも血が流れているのだよなというようなことを思う。

 

公開したら名前くらいは書くか。

 

 

そういえば、「線は、僕を描く」読了。先生みたいな本だった。感謝は余裕がないとできないとか、何も覚えられない、生きている実感がない日々とか、ここから始めないといけないとか。この本の感想文も書くか。

 

やはり感謝は自分の為にするもの。自分が見える世界は内観からの鏡だとしても、その表象からのフィードバックとしての反射が起こる。感じられるものは世界から寄与されている存在であって繋がりがあって、内観だけでは完成しない。良くも悪くも世界は自分の顕われみたいなものであって、それらに感謝できるかどうかは余白があるかどうかによる。

 

本で言えば読むものは読まされているものだし、演劇は観されられているもの。音楽だって聞くと同時に聞かせられている。あ、平家物語を下敷きにした面白そうな演劇予約してないな。予習もしとかないと。宵顔さんは居なさそうだから没頭できそう。笑

 

主人公が描くことによって自分が癒されていたということに最後の方で気付くのだが、僕はここで書くことについて想った。ここで言う癒しは、許容とか依存とかではなく、自分のナカミを承認するというか、自分=世界には何が在るのかをとにかく見つめることなのかなという感じ。

 

自然の無常に向き合うということはイコール自分ないし人間の無常と向き合うこと。

 

人ってつくづく難しい。

 

でも、人で生まれた以上、自分の世界だけで生きるのはもったいなくて、他人のまなざしとしての存在も読みたくなる。ここに「僕がどう見えているのか」を入れると僕の世界のことになる。これもまぁ気になる。異星人かな。

 

やれやれ。

 

「本を読むことは白昼夢に似ている」というつぶやきを見かけた。

 

白昼夢って現実の中で垣間見る夢というということなのだろう。本の世界は確かにそういう面はある。ただ、どちらかというと、あちら側の方が実存には近いとしている。夢としたくなるのは、現実には規定された自分が在るとしたいからであって、その自分がまず虚構だし。色んな知見から統合した1つの自我があるというのは仮設だと断言。

 

白昼夢だとしたい世界も現実の一部。物理だろうが精神だろうが、世界は自分と対象の共同制作品であり、区別される、できるものではない。

 

学問も面白いことになっている。僕が進んだだけかもしれない。学問同士の越境が行われていて、読みやすくなった。もともと学問って哲学という観念で世界を細分化してみるというところから派生している。専門的になって分化していったが、もともとは1つのこと。ゲーム理論とコンピューターが再統合の契機なのだろうな。

 

法学も、僕の認識の外に在るものとするのではなく認識の一部と考えるのが吉。論証というのは一般的経験則からの再現性に耐えられるものであって、別に僕の言葉でなくても良い。訓練にはなるか。

 

家族観の変化は裁判にも影響していて面白い。再婚禁止期間と夫婦別姓の違いは、再婚禁止期間は結婚自体ができないという直接的な制約があるが、夫婦別姓は結婚をすること自体は制約しておらず、結婚した後の影響が問題とされている。

 

そもそも、国家に認められるべき人権とか権利とかも難しい。普通の人は国からの制限なのか一企業の制限なのかも区別していないようだし。まぁ法の機能はその中身を具体的に知っているかどうかではなく、そういうものだという無意識に浸透されている行動の統御らしいし、これくらいで良いのか。

 

人がルールに従うのはどういう状況かという研究で、正しさが当人の倫理感に一致していることではなく、プロセスとして正しくできあがったルールであることの方が重要なのだとか。法律は上手く信用を勝ち取っているらしい。個人間のルールで言えば、きちんと話し合って決めるというプロセスだろうか。そういうのしてもらったことがないというか、僕がスルーしてきただけか。

 

言葉は多機能だから大変。

 

はたして僕は毎日何を書いているのだろう。

何かの習作みたいな感じがしないでもない。

 

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。