見落とし

 

 

 

引っ張られるのを避けるため基本的に日記でも私信でも感想文でもタイトルは最後に付ける。でも、本日はこれで良い。

 

あぁ、良く動いた1日。充実感って満腹でなく空腹に近いものなのだなという感じ。まだまだ世界を食べられる。ラッドの新曲美味しいな、特に桃源郷。名前のことを考えていたらそんな歌詞が出てきた。

 

最早番の仕事時間に合わせて過ごそうとしたが、二度寝したら寝坊した。睡眠時間少なかったのかなと、ゆっくりちゃんぽんのカップ麺を食べ、しかし活動を開始したのが午前中だったからなかなか良好。

 

カチカチは占有権の条文。物を事実的に支配していると認められるモノサシは、所持と所有のための意思なのだが、これも事実概念というよりは社会的に外からどう見えるか。あとは行政法もちらっと。行政権は国家においてもっとも危ないもの。警察という暴力もそうだし、租税関係、あるいは諸々の許可、検閲、いっぱいある。だから立法という法律で縛ることが必要だという歴史の相違があって、ただ、完全に縛ると融通が利かないというジレンマもある。このジレンマを埋めるのが裁量だったり、行政指導だったり、システムとして捉えるの楽しい。

 

カチカチはそこそこに、自分のためだけの場所作りもした。感想文は日記とは別でそぎ落としていく感じが楽しい。日記は日常の世界がどこまで拡がるかに言葉を当てていくものだが、感想文は対象とそれを読んだ自分の感じの間にある何かに言葉を当てていく。どちらも書き現すのではなく、見つけるというイメージ。

 

この何かに没頭していると、お腹減らないなぁという気分。でもここで抜くとカロリーがなぁという大人の分散的思考が働き、コンビニで弁当とサラダとお茶を買う。

 

その後、ぼーっとしていて、本日のタスクである近所の公園へ散歩に行く時間がやや遅くなった。宵顔さんがいいねをしていたつぶやきの中に、何か音楽イベントをしているという情報があり、近所だし中には入らないでも野外だから音は聞こえるのは知っている。

 

ルート設定で、古書店を通ることにする。300円で1冊購入。「社会人類学」。掘り出し物な感じ。なんだか賑わっていた。そのルートでは、この前行った有料の自然公園の脇を通る。紅葉が良さげだった。のどかな営みを外から眺める。

 

コンビニでビールと裂けるチーズを買う。(スモーク、この前のプレーンと共に我が家の冷蔵庫に入っている)飲みながら、いつもと違う街路から公園に入る。少年野球を眺めながら灰皿とベンチがあったため小休止。ふと宵顔さんのインスタを眺めると、どうやら来ているらしいということが分かり、「居るかもしれない」から「居る」の落差になぜかすんとなる(なんでだろう)。

 

ともあれ進んでいくと音楽が聞こえてくる。あれ、そもそも入れない。どうやらイベント事は終わって、関係者だけで撮影をしているらしい。まぁ良いかとそとベンチで家族風景やら犬の散歩やら雲の流れを眺めつ、先程買った本を読む。

 

聞こえてくる音楽と、じっくり見ないと流れていることが分からない雲。音楽は言葉よりも現実的だなとふと想う。物理的に波紋というか振動があるから分かり易いという意味。分かり易いというのはとても大事な効用。人と人のコミュニケーションにおいて言葉は10%くらいしか意味がないらしい。発話は物理的に波紋があるはずだが、これは微々たるもので、体の動きとかの方が波紋として分かり易いのだろうな。

 

僕の中では分かり易いという効用を享受するのは楽だが、それでも言葉の微々たる波紋を眺めたいのだなと、依拠できない自分を見つけてしまった。

 

音楽世界から我に返り、生活に戻る。帰ってからやっと1つ目の感想文ができあがり、ついでに場を世界に公開した。1つ目はネットでもまだ売っていないため、感想文読んで読みたくなっても手に取れない本。感想文の出来もあまりよくない感じがしないでもない。

 

僕に後味を残すような本が誰かに読まれたいみたいな、共有したい感は一切なのだよな。僕の人生物語上に意味があることはあっても、それが他の誰にとって面白いとは限らない。そこまでその人を分からないし。あくまで自分の為だから、ホームページにあるべきものはカットしている。この延長線上に、自分の為の物語があるのかもしれないと思うがまだまだ。せめて1週間に1更新くらいはしていきたいところ。

 

宵顔さんが書いた本の感想文だが、まず初めに宵顔さんに読んで欲しいみたいな衝動がなかった。感想文読んで欲しいのだったら私信として送りつければ良い(読まれているか不明だが)。どうしてなのだろうと考察するに、僕は言葉の伝達性を信じていないということなのかもしれない。

 

だから微々たる波紋としてのボトルセンテンスを世界に投げて波紋を感じ取れる人だけが読めば良い。

 

あぁ、ちなみに場の名前は「漂流文」です。

ほんと、ここまで関係を排さないと自由に言葉を綴れないというのは不自由野郎である。

ここはそのうち何とかなりそうな手触り(楽観)。

 

でも、誰かが読んでくれているから書けるエネルギー源になっているというのとは違う。

 

タイトルの話。

 

歌人が憧れの人が云々と書いていた。僕は誰かに憧れられるようなことあったかなぁと考える。いや、ないないという部分と、あれ、そういえばという見落としと。

 

思い出されたのは、中学時代が終わった後に誰かに聞かされた何人かの女の子はうっすら僕に憧れていたという話。へぇ、何を今さらと当時は思っていた。別にそれと自分は無関係だし。でも、当時の僕は成長期がまだきておらずちんちくりんだし、会話で自己主張している訳でもないし、何か分かり易い部分で読み取れる姿が見当たらない。蓼食う虫も好き好きとは言っても、何人かっておかしいよな。

 

自分がどう過ごしていたか、意識されていない部分は全然残っていない。別に優しかったとも思わないしなぁ。

 

高校時代で残っているのは硬式テニス部の同級生に言われた、「お前の笑顔は凄い」という言葉、特に仲良かった訳でもない人が言ってきた、意味不明な言葉として刻印されている。ただ、中高時代って、まだ真っ白な部屋には至ってないんのだよな。何か自然であったのかもしれん。

 

過去の栄光の話ではないのだけど、なんかそんな感じはあるか。

僕は誰かの承認(モテ)によって自分が安定したことはなく、むしろ不安定になった。

 

 

暗黒(空白)時代を経て、また自然になれてきたのではというところが本題。

 

ホームページができあがった後、なんとなく紹介した第1号の人は宵顔さんではなかった。この自分の動きを分析してみる。

 

素朴な僕は別に具体的な近さに人間関係を置いてなくて、別に関係しなくても存在として残っているから、僕を読まれることに価値がない。僕が一方的に読めるようになれば、それはそれで良き世界。

 

僕の文章が好きだというという人は何人か居た。ただ、縁が切れそうなタイミングで引き留めようとした人はほとんど居ない。うわ、長く過ごした恋人さんの最後の言葉、「もう会えなくなるんだよ」が思い出される。これは引き留めとは違う、よな。

 

この所作って、その人の人生物語において、僕を見つけられたに等しいというか、縁を繋ぎ止める意志がある。僕は具体的な縁が切れても平気で先生認定するから、生きている軸が違うのだが。

 

ちなみに、第一号は歌人さん。宵顔さんも僕との縁を留めてくれた人で今も存在している。ただ、どこまでの縁なのだろう。で、分析すると、留め方として、歌人さんは僕の日記が読めなくなったことに対してで、宵顔さんは私信が途切れることだった。

 

比べようもなくどちらも嬉しいに、はまだなってないな、意味不明なこと。

憧れられていることはどちらの人物からも皆無と思うが、僕はこの点見落としてきたから何か盲点があるのかもしれない。

 

僕は僕の日記を読む人と現実的に関係できるとは思ってないところがある。

直近の恋人さんが読んでいたことはまだ曇っていたか。

 

匿名やーはーみたいなことではなく、現実では制限されてしまうためそこで好かれても上手くいかないに違いない。ただ、これは、僕が現実でこの日記世界を顕せば良いだけという気もする。憧れられるのが嫌だとかむずからないようにする。

 

いやいや期かよ。

実際自分に無いものとして羨望されるのはむずむずした。その前に貴方にはいっぱい有るものがあるじゃんって。

 

こういう意味の縁を見落としてきていたのかなぁと思っただけ。

まぁ、言葉は伝える道具としては遺物みたいなものなのだろうな。

 

だからこそ使い勝手が良い。

 

本気出して良いぜよ自分(どこかのラノベみたい)。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

ご自愛されていますように。