なんぼ

 

 

 

言葉は誤解されてなんぼ。

 

歩いているときに手が悴みだすと気温が冬っぽいなと思う。職場でも体調不良でお休みとか、去年はなんともなかったインフルエンザの予防接種で発熱の人が居て余波なのか、と外から想う。皆さん大丈夫か。特定の疾患にかかりにくくなったとしても、基礎的な免疫力が下がると、未病でダウンということが多くなりそうな。

 

免疫力も良く分からないところ。防衛機能なのは分かるが、どうしたら向上するのか。まったくストレス負荷が無いのも良くはない気もするし。僕はというと常に37度弱の体温が保たれており、負荷もそこそこ、心はゆったりで、ほぼ万全なのではと勝手に診断している。インフルエンザかかった覚えもない。だいたい年に1回くらい、リセットするように風邪を引くくらい。なんとなく心因も分かっているし。

 

冬に病気というか体調不良が増えるのは何故なのかとちょっと考えた。乾燥するとウイルスが活発になるというが、それだけではないよな。素朴に考えて、現代の気候による気温の推移上、体温とより離れるのが冬だからだろうなと推定。平熱を低めの25度に設定したとしても、冬ではまだ暖かい方の外気10度に対応した体温プラス15度の40度は夏の気温としてほぼ起こらない。体が体温を保つことにエネルギーを使うからその分隙が生じてしまうという説。

 

さらに細かくすると、体温を冷やすことと温めることではどちらが大変なのかというのもある。体温と近いところではどちらもあまり変わらない気がするが、冷やす方がなんとなく楽そう。汗をかくのは体の成分の大半を占める水分を使う。補給もそれほど難しくない。温める方は、食物から採り入れるカロリーを熱エネルギーに変換しないといけないから工程が多そう。工程が増えればその分効率が悪くなるのではという想像。

 

素朴に考えると、去年なんともなかった予防接種で発熱するってかなり異常事態なのではと思うが、馴れてしまっているというか当たり前の置き所が推移してしまっている感じがする。でも、選択しないという前提はありえないのだろうな。

 

まぁ人それぞれ。相手ないし周りに安心感を与えるという意義もあるだろうし。

 

ほんと、無関係のことばかり頭が回る(悪くない)。

 

さておき。

 

この感情は恋愛感情なのかと寝る前に眺めていたら、自分の中のジェンダーについての夢を見た。ジェンダーって、たぶん社会的な性別上どうかという話だが、社会における細分化は当然個人の中にもフィードックされるはず。されないのかな。

 

僕は生物学上の男体持ちで、社会上も男性で問題なく、凹凸となめらかさで女体を欲する(なまなましい表現)で良い。とはいえ、規範的、いや模範的な男性性と模範的な女性性の間のニュートラルの辺りに精神的な性があるのではという夢。夢でこんなこと見させるなよという感じだが、求める女体の中にある性もニュートラル辺りが良いのかもという感じ。

 

内心にある性の模範は役割を前提としているように思う。男性とはこうだ、女性とはこうだというモノサシは、そうあるべきだというところにあって、素朴な個人の話ではない。僕が女らしい女性を苦手とするのは、女家族で育ったからもともと本性を知っているというか、それは外面だろうというか(言い過ぎ)、諸々の渦巻きがある。

 

個人的に性に模範的色合いが濃いのは男性に多いと思っている。

他のオスより優れているということを示したい感。知らんけど。

 

最終的に誰か知らない人に不格好に告白していた。

お風呂読書の影響と思われる。

 

今日読んだシーンは、案の定、主人公がフラれるのだが、植物学者の女性が断る文句にちょっと引っかかった。曰く、「植物には愛の概念がないのに、これだけ地上に繁栄している。だから植物を研究対象にしている私は誰とも付き合えない」みたいな。

 

夢と繋げるなら模範的な人と人との「愛」の表層に囚われているような。贈る、返すみたいな観念は狭くて、僕としては植物こそ愛の権化みたいな存在だと思うのだが。感謝されることもなく、生物を存在できるようにしているのは植物が光合成してくれているからで、悪い気も吸収してくれるし、存在としておかしくないか。感情がないというのも人間の範疇の捉え方。感情を顕すことはないかもしれないが、感情を環境として影響を受けてくれているような。

 

まぁ確かに具体的な人の方が存在として生生しいのは分かる。これを感じられる、ここで動けるというのは人間の醍醐味。環境とは別に自発的に動くのは基本的に人間しかできない。

 

 

サルスベリの紅葉、目を凝らせばすぐ見つかった。花と比べると地味である。むしろ、実に目が行く。これを食べようと登ろうしたお猿さんが落っこちて死屍累々というイメージが浮かんだ。名前と漢字があんまり合ってない。このギャップが良いと想う。

 

ところで、冒頭文。

 

意味不明って一般的には悪い言葉だったなとふと。僕の中ではまごうことなき褒め言葉。嬉しいよりも価値がある、のか?

ちなみに気になるもそう。気が散るとも気にするとも違う。

 

一般語用としての意味不明って、理解ができないというより納得できないという色合いが強そう。自分の経験則上当たり前なことをしない、できないことに対して、意味不明というレッテルを貼って、生活外に置くというイメージ。「分からない」を全部投げるゴミ箱的な言葉なのかな。

 

たしかに僕のも経験則を問題としている。僕の経験則からは離れている。ただ、離れているだけであれば、意味不明とはならない。人それぞれ自分の理を持って生きているし、その理の中の範疇であれば、自分が絶対しないことであっても当人の中ではそうなのだろうなということになり、意味は分かる。

 

僕は自分が得てきた経験則という理の外で生きているし、問題は、なんで僕を残そうとするのかという理外。読み物なんてインターネット世界ではお腹いっぱい以上に溢れているし、気になる情報は検索スキルがあればどうにでも手に入る。

 

これが僕と現実的にどうにかなりたいみたいな話であれば、意味不明にはならない。当人にきちんとした目的があるし、それがインターネット世界であろうが僕には無関係だし。

 

僕にとっての理は、インターネット世界に存在が公開されているのだから、一方的に読めればそれで良いし、僕がその一方的に読んでいる対象に読まれたいかというと、読まれる快感がないから、どっちでも良い。

 

だから、意味不明な人が現れるとなんなのだろうという意味で存在が引っかかる。

当人にとって僕の存在に意味があるように見受けられんけどなぁって。当人の世界の中で理外のことをしてないか。

 

やれやれ。

 

僕は1人で物理世界を過ごして十分だとしているのだが、これって見る人によっては凄く寂しい奴に見えるよなという気がする。物理的な温もりとか近さの関係が人と人を繋げているのだという理は分かる。全然意味不明ではない見方。

 

ただ、僕の存在としての繋がりは、一般経験則上の懇意とは別のところにある。僕の存在は物理の振る舞いで表現されるものではないし、他人の存在もそうだから、ただ近いだけでは分かり合えない。生まれた家族がまさにそうだし、それをトレースした関係もそう。

 

なので、僕は読み合いの方が全然存在として近くて暖を取っておりまする。

 

この上での物理であれば楽しそうというのはある。

でも、これって相互に理外を受け入れる器がないといけなくて、とてもありえない関係であると思っている。自分の中にある相手像の更新可能性を常に認められるという意味の相互愛。

 

自己愛としての更新可能性も着々。

自分の場所を創ったから、ここみたいに一筆書きの文章だけでなく、ゆっくり毎日書き続けるということを始める。次の感想文の形は整えた。人生を表現する一筆。そんな風に言葉を綴れるようになりたいものだ。

 

自分の中に変化を認めるから、世界の変化も受容できる。

身長が伸びたのではなく、姿勢がしゃっきりしただけかもしれない。

 

世界って所詮こんなもの。

気分によって見え方が変わる玉虫。

 

良い加減そろそろ悪いこと起こらないかな。

宵顔さんにフラれたい。

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢を。