盲点

 

 

涙腺が物理的に崩壊している。乳液が目に入ったのか、玉ねぎの硫化アリルか、感情の崩壊か。最後はなさそうだからなにか煙っているのかもと、換気扇を「強」にした。特に変な匂いはない、と思われる。

 

 

刑法の講義を受けている夢を見た。皆眠そう。手を挙げて当てられ発表をしている。言論による犯罪で、「人権という法益が」とか言っていたら、教授に「あん」みたいにねめつけられる。確かにぼんやりしているし焦点もぼやけている。刑法が保護する利益は人権に含まれているが、刑法が保護しようとする利益は、人権の中でも特に社会上大事とされるものだから、人権と言ってしまうのは×。もっと細かくしないと。

 

雑談でニュースの話が聞こえてくる。刑法で捕捉できるのは人の命という利益であって、その前にある人間の尊厳を守るのは社会の領域よなぁとか。親でも先生でもない話を聞いてくれる人が必要だったのだのではと聞こえてきて、たしかにそういう存在を必要とする子供も在るだろうな。それとは別に、なんというか、終わったことが流れるニュースについては何とでも言えるから話題としては至上なのだろうなというのと。

 

 

朝に白い月が上がっている日って夜には見えないのだっけ。月の周期の仕組みさえ分かっていない自分。まぁどちらも綺麗だし、探そうと見上げる行為も問題ないから特に不便はない。

 

今日はあまり言葉が進まない日かもしれない。

ただ、どちらが良いとも言えない。

 

「言葉と意味」で、言葉とは、世界と自分を切り離して観測できるようにする道具(意訳)というフレーズがあり、たしかに遣えば遣う程自分からは離れていくのが言葉な感じがある。これで自分が伝わる観念ってどういうメカニズムなのだ、はてな

 

植物学の話。美味しい。予習をしていたため、専門用語が読めてしまう。オーキシンとかタロイモとか。ヒロインが植物学を専攻したのは、ちょうど良い対象だったみたいな話があった。「知りたい」を突き詰められる。僕が学者肌ではないと思ったのは、世界を食べていることは、特定の何かを「知りたい」みたいな衝動とは無関係だなぁと観測されるから。自分だけの一番乗りの発見を世界に伝播したり、それで世の中を便利にしたり、みたいなのはない。「知りたい」のために予定調和をぶっ壊してみたこともあったが、上手くはいかなかった。

 

そういう意味ではオタクでもないのかも。知りたい訳ではない。ただ、世界を読みたいだけ。

 

読むことを学問する分野があれば、もしかしたら惹かれていたかもしれないが、文学部とか文芸系の読むは、対象が歴史上どんな位置付けかを追うイメージ。まぁ社会に還元させようとするのであればそういう風に読むしかないか。

 

一番近いのは現象学なのか。言葉と意味も現象学の本だし、自分と隔たれた世界を学問する感じ。哲学者が言葉を尽くさないといけない意味もこういうところにあるのでは。

 

でも、結局、世界は自分の現世(うつしよ)である。

これが分かってきたのがやっと最近で、赤ん坊みたいな感度。社会で当たり前とされてきた規範がぽろぽろ崩れて、自分のものとして再構成されている。定期的に揺り戻しで、近さに価値を置けば良いのにって凹むのだが、近かった時に、僕のことが分かられたことがあったかと自問すると、それはなかったと返ってくる。

 

現世の明確な表現は言葉。もちろん世界は言葉にできないことがほとんど。

分かっていないことでも知っている風に振る舞えるのも言葉。

 

いや、これって、ただ単に僕が言葉好きなだけなのかもしれん。

中の言葉も外の言葉も読み甲斐がある。

 

それに、読むことって当たり前過ぎて特殊な技能がなくできることされている。

てらいもなく独立させて読むってかなり難しいと思うのだが、人は自分の読解能力を信じている。読まされていたとしても読んでいることにしないと当人の世界が崩壊するもの。

 

僕は人が言葉にそれほど価値を置いていないということを再設定しないといけない模様。

いや、価値としては僕の方が置いてないか、混乱。価値をモノサシとしてないので。

 

うつしよと言えば、「脳の中の幽霊」で、盲点が分かる図が出てきた。片目で距離を前後しながら見ると、ほんとに消える。ぽっかり黒丸になるのではなく、その周りの地が視界に書き込まれてなかったようにされる。信じるべき「目」でこれ、世界で見えてない部分は脳が勝手に書き込んでいるんだよなぁって。(両目で見ている限りでは盲点はそれぞれカバーされる)

 

人は見たいものを見るというのは良く聞くが、おそらく主観的な視界のことで、世界そのものではない。でも、本当は世界の客観性そのものが、当人の現世なのだろうなとなった。別にその人の世界が広いとか狭いとかではなく、比べることができない世界観。

 

相対性理論だと、宇宙空間にふよふよ浮かんでいる二つの物体について、どちらが動いていてどちらが止まっているかは観測できないのだとか。こんな世界観で生きている。

 

植物学の小説のヒロインにちょっと通じるところがあった。

誰かと睦まじく一緒に過ごす時間を確保する時間が自分にはない、植物のことを知る時間を使いたいみたいなところ。

 

ちょっと違うのは、僕には別に時間はある。誰かと何かするのも良いことだと思うし。ただ、それによって存在が近くなるとか睦まじいという評価になるのは違う。睦まじいから近く時間を共有することと、時間を共有したから睦まじくなったと思い込むことは結果というか行動的には同じだが、全然別の観念。知ったから近くなったとも近そう。

 

知らないと近くなれないのは、安全圏の話なのだと思うが、僕は知ることは諦めているし、一緒に何かをするということで何か近い気分になるのは結婚式とかだけで良い。

 

なんだかニュアンスが難しいな。一緒に何かすると一体感があるのは分かる。僕も誰かとキャッチボールとかバトミントンとかしたい。でも、これはあくまで自分の中の爽快感であって、人の存在は共有より前に在るとすること。そんなの当たり前じゃんっていうのは分かるが、それを観念レベルではなく現実として見られる人はあんまり居ないと思う。

 

人は自分に写っている間だけ人。

雑談のニュースの可哀そうな少年も、一か月後にはきっと当人の頭の中では居なくなっている。

 

だから、写したいという意味で残そうとする衝動は分かる。

でも、なんかそうじゃなく僕を見ている人が居るような。こんな意味不明な日記群に良く着いてきてくれるものだ。

 

面白くもないのに、というのはあくまで自己観の話で、読み手の世界からしたらそうでもないのかもしれないが。(拒絶観)

 

僕が「読む人」だから、読む方に寄っているのかもしれない。僕を読むよりもっと有用なもの読んだ方が良いのではという世界観になるが、僕が僕を読まないようにすることを押し付けることはできない。できることとすれば逃げだけ。

 

価値を置かれると逃げたくなるのは、価値規範が押し付けられそうになるからなんだよな。

今はそんなことはなさげ。

 

はい、なんだかんだ、通常営業の文字数。

 

おやすみなさい。

 

暖かくしていますように。